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2F/当番ノート

地面と命:シン・地面のファン

当番ノート 第56期

地面と命について、やりたい放題に書いた。「人間」または「自然」が、「意図的に」または「自然に」干渉することで生まれる地面の上の違和感。それこそが、私たちの追い求める物である。話が整理されて、満足。

というワケにも。「私たち」って誰だよ、と。

さて、そろそろ私の正体を明かさねば。エヴァのパロディに頭を使いすぎて追い込まれている変な人ではない。何を隠そう私は、落とし物・ごみ写真投稿コミュニティ「地面のファン」の管理人・フチダフチコである。落とし物・ごみの写真を撮り続けて数年。地面の写真で16万いいねが付いた「地面の変態」である。どっちにしろ、変な人か。

「地面に命を感じる」と感じる観測者がいなければ、話は始まらない。量子力学みたいな物である。ホラ、あの光がスリットを通って、縞模様が、的なアレ。誰かに「観測される」と命が発生するのである。何言っているか分からない人は「量子力学」のウィキでも見てほしい。私もよく分からずに言っているので。

兎にも角にも、「地面に命を感じる」私たち「地面のファン」がいるからこそ、地面に命が宿っているのである。私たちの地面に対する思い込みが、命を生み出す。思い込みによって生まれる命。「地面のファン」がいるから生まれる命。それは、落とし物・ごみをゆるキャラと捉えたり、落とし主・失くし主の面影を感じたり。

という話は、この当番ノートを通して何度も繰り返した。今更同じ話はしない。この他にも、命が生まれているのだ。それは、架空の命。落とし物やごみを媒介にして、架空の命を生み出す行為である。

私の妄想に置き去りにされている人が多いと思うので、ここで一枚の写真を貼る。

「一段高い」地面に現れた、ごみパフェ

パフェである。散々「命」と言い続けて、今更パフェである。これを命と呼ぶのは流石に難しい。

しかし、「地面のファン」はこれにすら命を吹き込むのである。どうだろう。これを、幽霊のひと休みと捉えてはいかがでしょうか。幽霊がパフェを食べているのである。私たちにはパフェしか見えていないが、本当は幽霊がいるのである(幽霊は死んでるのに「命」なの?というツッコミはなしで)。

空き缶、食べカス。注意深く地面を見ると、結構食べ物が落ちている。これらを、幽霊たちのひと休みと捉えて散歩をすれば、あなたも「地面のファン」の仲間入りである。何も、目に見える部分に命を感じる必要はない。架空でもいい。地面には命が宿っている。

食べ物以外にも、見えない命は宿っている。

「地面のファン」に投稿された「座席」

これは、「地面のファン」コミュニティ内の様子である。見付けたのは、「座席」。この日、私たちは迷子の宇宙人を助けるため、壊れた宇宙船の部品を集めていた。

そして、「ヘルメット」が続く
フチダも「トイレ」で応戦する

目に見えない命が、メンバーの共通認識として存在している。こういう書き方をすると、ちょっと怪しい宗教みたいだが、単なる遊びである。地面に関する同じ妄想で遊ぼう、程度のテンションで。

遂に、ワケの分からない物まで

「地面のファン」っていうコミュニテイを運営してるんだ、という話をすると、「お前も好き者だね」的な返しをされる。多くの人は、好き勝手に写真をアップして楽しむコミュニティを想像しているのだろう。違う。「地面のファン」には写真に対する妄想を交わす、ちょっと変わったコミュニケーションが発生するのだ。「地面に命(架空・妄想)を感じる」遊びが、この世界に存在する命(人間)のコミュニケーションを活性化させている。意外と凄いことをしている気がする。

ここまで聞けば、話半分に聞いていたあなたも「地面のファン」に入りたい気持ちが芽生えたのでは。芽生えてませんか?そうですか。

「シン・地面のファン」と題して、「地面のファン」を「地面と命」という視点で解釈した。無理矢理感がありますか?そうですか。来週は、いよいよ最終回です。おめでとう。「世界の中心でアイを叫んだ落とし物」。サービスサービスぅ。

フチダフチコ

フチダフチコ

中野区在住ライター。落とし物・ごみ写真投稿コミュニティ「地面のファン」管理人。がん患者。エッセイ「カルピスソーダ光る夜まで」。

Reviewed by
安部 寿紗

「地面と命」のレビュワーさんを担当し始めて、わたしもまんまと地面が気になるようになった。
一体なぜここにこれが…そう思ったが最後、様々な妄想を繰り広げて写真を撮る。
昨日なんか、バイト先に出勤する際、両手に大荷物を持っているうえ、マグカップになみなみ入ったコーヒーを持っていたにもかかわらず(淹れたものの飲む時間がなく、持って出勤したのです…)地面に命を感じる現場に遭遇してしまい、わたしは地面に荷物とコーヒーの入ったマグカップを置いて写真を撮影した。
地面に落ちている物は一期一会だな、と思う。もう次通った時にはないかもしれない。そう思うとスルーできなかった。

【地面に命を感じる時、観測者がいなければ、話は始まらない。「地面のファン」がいるからこそ、地面に命が宿っている】と、フチダさんは言う。そしてわたしはこの一文にハッとした。


【これは、「地面のファン」コミュニティ内の様子である。見付けたのは、「座席」。この日、私たちは迷子の宇宙人を助けるため、壊れた宇宙船の部品を集めていた。】

何それ、、、めっちゃ面白そう、、、。
すっかり地面のファン気取りになっていたが、コミュニティサイト内では神の視点の高尚な遊びがなされている…!
そして気がついた。「地面のファン」は一人遊びではないのだろう。誰かが発見した地面に対して、誰かが反応を示す。そこには人と人との交流があり、繋がりがある。

わたしは最近、きっとこのまま独居老人になるな、という想像をしていた。そこからずるずる思考を巡らせていたら、生まれた時に見ていた目は、わたしが死ぬ時にはきっと見ていないけれど、生まれてきた時に見ていなかった目が死ぬ時に見ている可能性が人にはある、が、わたしにはないーというようなどうしようもない思考に突入、しかし今より先にわたしが歩む人生は何も定まっていないし、社会がどうなるか、地球環境がどうなるか何も定まっていない、定まっていない物と定まっていない物のぶつかり合い、ぶつかり稽古だわ、波動、わたしは波動の中に生きる波動ーそこからあの光がスリットを通って、縞模様が、的なアレについて考えていたところだったので、冒頭を読んでいてフチダさんとシンクロしだしたのかと思いました。
最終回はシンクロ率400%目指して頑張ります。すみません。何を言っているのだ。

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