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2F/当番ノート

地面と命:世界の中心でアイを叫んだ落とし物

当番ノート 第56期

「序」「破」「Q」と来て、「襲来」「渚」「Air」「まごころを、君に」。そして、「シン」。最後は「世界の中心でアイを叫んだ落とし物」で終える。おめでとう。「序・破・Q」から振り返ろう。

落とし物やごみなどの地面に転がっている物には、落とし物やごみの落とし主・失くし主(そして、ポイ捨てした奴)の面影が感じられる。落とした人、失くした人の抱える寂しさが、ぼんやりと感じられるのである。私が「地面」の写真を撮り続けているのは、この寂しさを知るのが何やら楽しいから。これが一番シンプルな理由である。

しかし、地面に落ちている物に誰かの面影を見るのではなく、地面に落ちている物そのものが生きているかのように思えることがある。この落とし物・ごみは今落とされて(捨てられて)寂しがっているんじゃないか、など。

「命」の誕生が感じられる、おまる(?)

整理すると、地面の写真を撮る時に二つの「命」を感じているという話。一つは落とし主・失くし主、すなわち、この世に確かに存在している命。もう一つは、落とし物・ごみが生きていると妄想することによって生み出される架空の命である(「この世に存在している」の定義まで聞かれると話が終わらないが)

この架空の命の創造は「八百万の神」だったり「アニミズム」だったり、ちょっとオカルトな話にも聞こえるが、実際は「ゆるキャラを作ろう」とか「擬人化しよう」とかその程度のノリである。

結構ややこしいので、もう一度整理しよう。

・「地面のファン」は落とし物・ごみに落とし主・失くし主の面影(この世に存在している命)を感じ、それを楽しんでいる

・落とし物・ごみ自体にも命があるかのように(架空の命)妄想して遊んでいる

…シンプルな言葉にすると、非常に滑稽ですね。さて、この「命」を感じるために地面の写真を集めている。地面には、いくつかの種類があることも抑えたい。

①雨風で地面に落ちる花のように「自然」が「自然に」に現れる地面

②落とし物のように「人間」が「自然に」に生み出す地面

③ポイ捨てのように「人間」が「意図的に」生み出す地面

④「自然」が「意図的に」というのは何だろうか、これはワカラン

「人間」が「意図的に」生み出す「地面」もある

上記のように、ある地面の状態を生み出した主体が「自然」か「人間」かという違い、として「自然に」あるいは「意図的に」生まれたという違いによって、地面の受け取り方が変わる。この「自然」「人間」も「命(この世に実在している)」であるから、話はまたややこしい。

そして、もう一つ、ややこしい。この地面を見る観測者、すなわち私たちがいるのである。私たちもまた「命(この世に実在している)」である。

・「自然」か「人間」が主体となってある地面の状態が生まれる

・「自然に」あるいは「自然に」生まれる

・その地面観測する私たちもまた「命」である

「命(自然・人間)」によって落とされ、「命(実在・架空)」が生まれて、「命(観測者)」が感じ取る。

あるいは、

「命(自然・人間)」によって落とされ、「命(観測者)」が感じ取って解釈することで「命(実在・架空)」が生まれる。
こんな「命」の創造を繰り返しているのが、「地面のファン」なのである。

これも「命」

ここまで書いて腑に落ちる部分が多いのだが、ぶっちゃけなんか変だな、と思う部分もある。そもそも、そんなことを考えずになんとなく写真を撮っている気もする。無理矢理に理由を付けるのであればこんな感じで、実際は特に理由はないのかもしれない。こんなことを言ってしまうと、これまでの記事が台無しだが。


と、ぐだぐだ言っている私も「命」か。終劇。

フチダフチコ

フチダフチコ

中野区在住ライター。落とし物・ごみ写真投稿コミュニティ「地面のファン」管理人。がん患者。エッセイ「カルピスソーダ光る夜まで」。

Reviewed by
安部 寿紗

いよいよ最終回、おめでとう、おめでとう、おめでとう!!!8888
私は昨日たっぷり時間があったのに曜日を一日勘違いしていて今朝、あれ、今日土曜日やんかいさ〜〜、と今大急ぎで書いているのですが、こうやって毎週一番最初に記事を読めることを心待ちにする日々も終わってしまうのだな〜とアイ、愛で、哀であります。

【落とした人、失くした人の抱える寂しさが、ぼんやりと感じられるのである。私が「地面」の写真を撮り続けているのは、この寂しさを知るのが何やら楽しいから。これが一番シンプルな理由である。】

「地面と命」は地面を介して、落ちているその物自体、それを落とした人、もしくは運んできた何らかの自然現象、発見する人、それぞれの感情が感じられる(想像することができる)。
落とし物自体が寂しそうだったり、なぜこんなことになっているのか意味わからん、と考える、思考を巡らすのが楽しいー、【「命」の創造を繰り返しているのが、「地面のファン」なのである。】
悲喜交交とは、ググりますと「悲しみと喜びが入り交じっているさま。悲しみと喜びを同時に、また代わる代わる味わうこと。」とありますが、地面にはいろんな感情が存在する、命命交々だなぁ、そんな言葉ないけど、そう感じました。

レビュワーさんを担当させて頂く際、せっかくだから自分の制作のことを振り返ったり、考えられる機会になれば、なんて思って第一回目を書きましたが、今思うになんと欲どおしい。毎回記事を読んで、ただ楽しくどうでもいいような感想をただつらつら書くようシフトして行ったのですが、
【無理矢理に理由を付けるのであればこんな感じで、実際は特に理由はないのかもしれない。】とフチダさんは最後に記しておられますが、それが良い、世界もそうあれ、と思います。
こんなに苦労したから報われるとか、人生に無駄な時間などない、全て意味がある、みたいな言葉には反吐が出ます。(言い過ぎですね完全に!)全く持って無駄な時間、無駄な行為があり、そしてそういう時間が存在しても良い、そういう人が存在しても良い、そういう世界であれ、と最近思うのです。
え、これ地面を撮る行為が無駄とか言ってるわけではもちろんなく、最近思ってることをついでに書いてしまってる、なんの脈略もない戯言なんです、すみません。

今日は5月29日、76年前の今日、横浜大空襲があり、私の住む黄金町周辺は一番被害のあった場所であり、家の目の前を通る京急の高架下には沢山の人々が逃げ込み、焼死体が折り重なるように積み上がっていたと聞きます。地面に命を奪うような物が落とされることや、命が転がっているような光景が、惨禍が、もう二度とない事を願いながら締めさせて頂きます。
終劇でなく襲撃で終えてスミマセン・・・ああ、不謹慎なボケのように捉えられませんように、重ね重ねお詫び申し上げます、、、!
終。

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