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2F/当番ノート

地面と命:最後の渚

当番ノート 第56期

緊急事態宣言下。ゴールデンウィークらしいが、金色にしては随分とくすんでいる。仕方ないけど、外には出づらい。きっと、地面も賑わってないはず。

地面は、人の動きに合わせて変化することが多いから、こうして外出が制限されると変化が途切れる。しかし、一方で前回書いたように雨風の影響を受けて自然に変化する地面もある。人の動きが制限される状況だからこそ見える地面もある。それを見付けに散歩に出るのもまた一興である。

3年前のゴールデンウィーク、まだ抗がん剤の副作用が残っていて吐き気がもの凄いというのに私は鎌倉の海岸にいた。学生時代の同期一人と高校時代にツイッターで知り合って一度も会ったことがなかった奴一人、プラス私の3人でブルーシートを敷き、海で一夜を過ごした変な思い出。

がん患者なのに海で飲んでいた(ごみは持ち帰りました)

さて、「人の動き」と「自然」と「海」と。緊急事態宣言下で語るべきは、海岸の話である。

海岸にはごみが落ちている。遊びに来たひとたちが捨てる物、漂着する物。そして、海外へ流れる物もある。「ごみ」を撮る「地面のファン」という立場からすれば、その写真を撮って楽しむべきかもしれないが、正直何とも言えない気持ちがある。というか、汚い海岸の写真を撮ることだけじゃない。毎日、地面に落ちている物を撮って楽しむ半分、どこか寂しさも感じる。街は賑わっているのではない。汚れているのである。

「面白い」で済ませていいのか、分からなくなる

ごみの写真を撮って拾わずに写真を撮っているだけの私は考えればめちゃくちゃ悪い奴であって、アーティストとか何とか高尚な表現をされるような人間ではない。「地面のファン」管理人です、と自己紹介をする裏で、葛藤もある。ごみ、放っていていいのか。

海に転がっているごみは、「人の動き」によって作られる地面である。しかし、「落としてしまった」「失くしてしまった」という寂しさは感じられず、邪悪さすら感じられる。そう感じることもまた、「地面に命を感じる」内と言えばそうかもしれないが、なんかモヤモヤする。「人間」が意図的に、無理矢理に、関わる地面だからか。何を言っているのかワカラン状態かもしれん、ヤバイ。


・雨風で地面に落ちる花のように「自然」が「自然に」に現れる地面

・落とし物のように「人間」が「自然に」に生み出す地面

・ポイ捨てのように「人間」が「意図的に」生み出す地面

・「自然」が「意図的に」というのは何だろうか、これはワカラン

この「自然」or「人間」をどう処理するかで「地面」は区分できる気がする。もちろん、これがすべてではないけれど。

今後、ごみの写真をただ楽しんで撮っているだけでいいのだろうか。時々そんなことを考える。ごみが落ちていることを肯定し続けていいんだろうか。楽しんでいいんだろうか。

でも、そんな時にこんな「地面」を見ると、ごみを撮ることにも意味があるんだろうな、と思う。

近所の公園を掃除している人が作る「地面」

「人間」が「意図的に」生み出した地面である。しかし、ポイ捨てではない。近所の公園を掃除する人がいつもこうしてキレイに並べながら集めるのだ。

言葉で表現するのはちょっと難しいけれど、私は今後こういう「地面」を撮りたいと思っている。何て言うべきか。結局マジでワカランのまんま終わっている気がする。スミマセン。

次回、「Air on the 地 string」。サービス、サービスぅ。

フチダフチコ

フチダフチコ

中野区在住ライター。落とし物・ごみ写真投稿コミュニティ「地面のファン」管理人。がん患者。エッセイ「カルピスソーダ光る夜まで」。

Reviewed by
安部 寿紗

うちの近所には雑草引っこ抜きジジイがいる。
ジジイは早朝、かなりの広範囲を歩き回り、道端の草を片っぱしから引っこ抜き、そのまま放置していく。

ジジイが現れた日の地面はそれはそれは物悲しい光景になる。地面に転々と落ちている植物、日に日に茶色く枯れて死んでゆく植物。ペッタリと地面に張り付いて薄っぺらいレリーフのような姿になる植物。

ジジイは道端にあるプランターに植えられた植物には手を出さないので、おそらく「地面から生えている草」は誰にも管理されていないから引っこ抜いていいと思っているのだろう。

今回のフチダさんの文章に「人間が意図的に、無理矢理に、関わる地面」という言葉があり、私はこのジジイのことを思い出していた。


舗装された道路の窪みに薄く溜まった土、飛んできた種、そうやって生えている草は生えている時は殺風景な道路を彩り、というかほとんどの人が気にも留めない日常の一部なのだけれど、ジジイに引っこ抜かれたことによって、ゴミとなる。
百歩譲って袋に入れて回収するならまだしも、ジジイは放置していくので、無惨な光景を作り出すだけなのだ。


セイタカアワダチソウなど、多くの人が雑草と認定しているような植物(わたしはセイタカアワダチソウ大好きです!)でも、
プランターから生えていればジジイは抜かない。
プランターは誰か所有者がいるけれど、地面はみんなのものだから手を出していいと思っているに違いない。
ジジイにはジジイの言い分(悪い虫が蔓延するとか?)や美意識があるのかもしれないけれど、私はおそらく、引っこ抜くことが快感なのではないかと思っている。もし衛生観念や美意識でやっているなら放置しないでゴミ袋に回収しているだろう。

【「自然」or「人間」をどう処理するかで「地面」は区分できる気がする。もちろん、これがすべてではないけれど。
】
フチダさんの文章から、改めて道にプランターを人間が意図的に置くこと、そのプランターが放置されたのは持ち主が自然に他界したためなのか、地面を意図的に人間が舗装して、そこに風が土と種を運び植物の命が自然に育まれ、それを意図的に引っこ抜くジジイ、そのジジイは数十年前自然に愛を育んだ両親の元生を受け、というかジジイは意図的に草を抜いているのではなく自然に痴呆症になって無自覚に草を抜いているのではないか、え、まって、自然に痴呆症ってなに?まじワケワカラン、となってしまったが、でも何かにすごく近づいた気がする。

言い散らかしてすみません。回収してください。

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