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2F/当番ノート

地面と命:序

当番ノート 第56期

自分をハイヒールと思い込んでいる

実家もアパートだったし、今住んでいるのもアパートだし、そんなこんなで「アパートメント」というウェブマガジンに書くのは何やら楽しい。「マンション」とか「アパート」とか、それぞれの言葉の意味の違いを知ったのは恥ずかしながらここ最近の話で、意外とライターは言葉を知らない。住めればオッケー、住めば都、余談だが最近まで「宮古島」を「都島」だと思っていた。ライターを、というか私は、あんまり言葉を知らない。

そんな私が意味も実態も知らなかった(すみません)「アパートメント」へ寄稿するキッカケ、それは先日開催された文学フリマ東京での、とある出会いだった。共通の友人を介して知り合った、「アパートメント」管理人の一人である小沼理さん。今回、彼がこの「当番ノート」に私を推薦してくださったらしい。嬉しい限りである、本当に。

どうやら私が立ち上げた「地面のファン(落とし物・ごみ写真投稿コミュニティ)」を知ってくださっていたようで、この「当番ノート」でも地面についての執筆としましょう、と話は進んだ。途中、自身の血液がんについての話も書けます、など私からの提案も挟んだが、思えば口を衝いて出るのが「地面」or「がん」の二択ってのは何やらヤバイ気もする、人として。脱線、話を本筋に。

幽霊がパフェを食べている

さて、先程申した通り、私は落とし物やごみの写真を投稿し合い、それを愛でるというお茶目なコミュニティ「地面のファン」を運営している。2020年の7月に始動したコミュニティは現在160人のメンバーを抱える大所帯。いえ、20人集まれば万々歳だったはずなのに、意外と地面が好きな人は多かった。

私が地面に魅了されてから、まだ10年も経たない。手元に残る撮影データを参照すると7〜8年は撮り続けている気がする。始めた頃は落とし物やごみを撮るというルールではなく、違和感を感じる写真を撮る、というこれまた謎の遊びだった。スーパーでお菓子が魚売り場に移動してしまっている風景とか、そんな物(どんな物?)を集めていたが、次第に落とし物やごみなど、地面に落ちている物への興味・関心へと一本化された。理由は酷く雑で、毎日同じ道を歩いてるだけで勝手に落ちている物が変わるから。あれこれ歩き回らずに済む。奴等は勝手に現れる。

こうして写真を撮り続ける中で、近年不思議な感情が芽生え始めた。落とし物やごみに対して、「カワイイ」とか「どんな気持ちだろう」とかを想像して、まるで生き物みたいに接する自分がいる。ここだけ読むとド〜ンと引かれてしまうかもしれないが心配ご無用である。私が率いる「地面のファン」の会員たちは、みんなこの感情を持ち合わせている。私以外にも、こういう人たちは結構いる。念のため申す、「地面のファン」は怪しい団体ではない。心配はご無用である。

お腹まで届かなかった乳酸菌

言ってしまえば、お地蔵様とか神社のきつね様を見て命を感じるアレと一緒である。多分そんな感じ、怪しい思想はないので心配はご無用。そして何を隠そう、この「当番ノート」では、この不思議な感情を掘り下げるべくあれこれ書き連ねようと思う。地面に感じる命の話。転じて、宗教の話とか、出土品とか、地上絵とか。「土に還る」っていう表現もあるので、きっと地面と命は繋がっている。私は別に怪しい人間ではない。心配は兎に角ご無用である。

さて、今回はあくまで序章。「序」の後は、「破」「Q」とでも続き、「シン」で終劇でしょうか。余談ですがシン・エヴァは既に観劇済みです。ちなみに、小沼さんに「何曜日担当にしますか?」と聞かれたので、「地面なので土でお願いします」と回答した。こんなくだらない部分に拘っていないで、さっさと原稿を仕上げろよ、と自分でも思う。書きました。今回は以上、また来週。 続く、地面と命の話。


フチダフチコ

フチダフチコ

中野区在住ライター。落とし物・ごみ写真投稿コミュニティ「地面のファン」管理人。がん患者。エッセイ「カルピスソーダ光る夜まで」。

Reviewed by
安部 寿紗

レビュワーさんをしてみませんかというご連絡をいただいた時、ちょうど一つ展示が終わって私は虚無感に襲われていた。
私は美術作品を制作しているのだが、自分で企画しない限りそうそう展示の機会などないのに、今年は1月から4月の間に四つ展示の機会に恵まれ、その三つめが終わり、残るはあと一本、それが終わったら私は何をしたらいいのだ、という時に下さったありがたいお話だった。
そんなわけでよく考えもせずに引き受けた。(すみません…)そうして改めて、添付していただいていた「サンポー」というメディアにフチダフチコさんが寄稿されていた文章を読んだ。(https://sanpoo.jp/writer/warijaku/)
地面の人だ。

「地面と命:序」でフチダフチコさんは「近年不思議な感情が芽生え始めた。落とし物やごみに対して、「カワイイ」とか「どんな気持ちだろう」とかを想像して、まるで生き物みたいに接する自分がいる。」と記されている。

これはもしかして、私が「お米」に対して抱いている感覚と近しいものがあるのではないだろうか?と思った。私は「お米にまつわる作品」を制作している。
制作を始めた頃はお米の「イネ」としての植物の生態や稲作にまつわる伝承、稲作によって培われてきた社会、日本人の心の姿に関心があったが、最近ではお米を植物や食べ物を見る目では見ていない自分がいる。
例えば、毎年家にバケツを並べてお米を育てているのだが、籾種を近所の「日の出湧水」の湧き水で育て「日の出湧介」くんと名付けている。小さな籾種から白い芽がスッと出る様子などはまあ可愛いらしく、やがて苗が育ち、分蘖し、出穂してゆくその過程は子育てのような感覚だと感じている。ちなみに人間を生んで育てたことはないのだけれど。
そして私が最初に制作したお米にまつわる作品「お米絨毯」その後に制作した「うね-風の通る道-」は、お米が「どんな気持ちだろう」と思ったことがきっかけで制作したもので、一粒の籾種から千粒、そこからまた千粒、と永遠に続いていくその数の力を体感してみたく、粘土で大量のお米粒(を模したもの)を作り、並べる作品を制作した。
ただ、最近では私にとってお米は「素材」とか「模様」になりつつあり、お米の姿形を通して何かを表現する、ということが多くなり、初期衝動からかなりかけ離れた感覚があるので、今回フチダフチコさんの「地面と命」の連載を通して、私にとってお米とは何ぞや、を考え直すきっかけになればいいな、と個人的には思っている。

そういえば今日、道にあかいお花の飾り(ケーキの上に刺す飾り?)みたいなものが落ちていて、それを拾って道端のコンクリートブロックの上に置いた。ほぼ無意識の行動だったけれど、なんとなくゴミにはまだなっていない風な落ちてるものは地面より一段上に上げてあげる、というようなことを今までも無意識にやっていたな、と思い返した。
私はバイト先に出勤するとまず店の周辺のゴミ拾いをするのだけれど、ゴミを拾う目線で見ていると全部ゴミなので、容赦なくビニール袋の中に回収していく。けれど、ゴミセンサーをオフにして歩いていると、地面に落ちているものを無意識にゴミとゴミにまだなっていない落ちている物に区別している私がいるな、と「地面と命:序」を読んで気がついた。

エヴァンゲリオン見てない私ですが、「破」どうなるのでしょうか。次回も楽しみです!

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