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2F/当番ノート

みみこちゃんの恋人たち(8)

当番ノート 第12期

世界は毎分のように傷付いたフリをして、まやかしのような希望を抱きながら流転する。
光指す方向へと走るように生きてはいけない僕達も、
せめて誰かが落としていった光を辿るように生きることは出来る。

「あなたは、死んだのに」
みみこちゃんのその一言のお陰で、僕は大事なことを忘れていたことに気が付いた。
たった一日、物を見たり聞いたり考えたりするだけで
自分が死んでいたことを忘れるなんて、思ってもみなかった。

思い出せることは沢山ある。
初めてサッカーボールを蹴った日のこと。嬉しそうに蹴り返してくれた父親の顔。
高校最後の試合で負けて、自分にはその才能が無かったんだと静かに泣いたこと。
なんとなく立ち寄ったショップで気に入り、随分長い間部屋に飾り続けたCDジャケットのデザイン。
残業続きで毎日のように食べていたカップラーメンの塩辛さ。
『ただ、いっさいは過ぎていきます。』何度もなぞった小説の一節。

「君に、言いたいことがあったから」

ヒトの人生が一概に語り得ないように、死後も同じような多様性を持っているのかもしれない、と死んでみて思った。
例えば僕は死んだ後は幽霊になって、フヨフヨと魂だけが現世に存在して
生きている人間たちを見下ろしてはニヤニヤ出来るものと思っていたのだけれど
そんなこと全くはなく、僕が死んだ後みみこちゃんが何をしているのか、何を考えているのかなんてことは、全く窺い知れなかった。
けれど、それは飽くまで僕の死後の世界の話で、もしかしたら他の人は死後では
幽霊になって誰かをひたすらに見つめたり、もしかしたら驚かしたりなんてしているのかもしれないなあ
いやむしろ、そうあって欲しいなあと考えているのだ。

「言いたいこと?」

今朝久しぶりにみみこちゃんの顔を見た時も思ったけれど、やっぱり少しだけ老けた気がする。
いやでも、三十代も半ばに差し掛かる女性の顔とはこういうものなのかもしれないが
如何せん、僕が死んでからどれくら時間が経っているのか分からない。
僕の死んだ後の世界には、時間なんて存在しないから。

思い出せることは沢山ある。
初めて会った日のミーティングで、僕の質問に苛立ちを隠せないままの、みみこちゃんの上擦った声。
どうしても食べられない、と言って僕のお皿に運ばれた人参のグラッセ。
夜明けに目を擦りながら観た映画内での、突然のスプラッタシーン。
僕と君が恋人同士だったこと。

「うん。死ぬとさ、何も見れないし聞けないし、思ったことを書き留めたりすることも出来ないから、
 色んなことをどんどん忘れちゃうんだ」

思い出せることは沢山ある。
でも、きっと思い出せないことも沢山あるのだろう。
「例えば、僕とみみこちゃんは何年付き合っていたんだろう、とか」
過去の恋人達には何人にも聞いていた癖に
「三年だよ」
恥ずかしながら自分の場合が思い出せない。
「みみこちゃんと僕が別れた原因は何だったんだろう、とか」
だから、自分たちの場合を少しでも思い出すために沢山のことを聞きたかった、というのもあるのかもしれない。
「貴方が、交通事故で死んでしまったから」
今日何度目かの潤んだみみこちゃんの瞳を見て、そうそう彼女は割と泣き虫だった、ということも思い出した。
「僕達の恋に、点数を点けるとしたら何点だろう」
「……」

みみこちゃんとのことで、思い出せることは沢山ある。
でも不思議と、楽しいとか嬉しいという感情は思い出の中から薄れてしまっている。
三年も付き合っていたのなら、相性はきっと悪くはなかったのだろうけれど
いつだって浮かんでくるのは、今のように潤んだ瞳で僕を見つめてくる姿や、
退屈そうに窓を外を向いている横顔のようなものばかりだ。
もしかして僕が死ぬ間際、二人の関係は冷めかけていたのかもしれない。

「君は何点だと思うの?」

二人にとって大事なことを僕は忘れてしまっているかもしれないし、
忘れていることすら忘れているのかもしれない。
だからこの状態の僕に点数なんて、と思ったけれど、
きっとこれまでの恋人達だって、二人にとって大事なことのいくつかは忘却したままで
覚えているものだけで点数を付けていただけなのだろう。
「どうだろう、六十点とかかな」
「ふふっ、普通だね」
「普通かな?」
普通ということがよく分からないけれど、これまでみみこちゃんに点数を付けてきた過去の恋人達の中では
高い方だと思っているのだけれど。
「普通だよ」

今朝目が覚めた時、視界に飛び込んできたのは突き刺さるような日差しの色だった。
窓枠がレトロで可愛いから、ってカーテンを付けるのをみみこちゃんが嫌がったお陰で
この部屋での目覚めはいつも刺激的だったことも思い出したことの一つだ。
久しぶりに持てた身体は何故か初めてサッカーグラウンドに立っていた頃の幼い自分で、
これは都合が良いかもしれないと、みみこちゃんを欺くことにしたんだった。
ねこたくん、なんてふざけた名前、名乗っちゃって。
日没に近付くにつれ、身体がどんどん大きくなっていったのは
きっと時間が死ぬ間際に戻っている証拠だろう。
すっかり伸び切った手足のお陰で、おずおずと身を寄せて来るみみこちゃんを
やんわり抱き寄せることも厭わなかった。

「ねえ、みみこちゃん」
丁度良い高さにあるみみこちゃんの頭を、僕はなるべく優しく撫で付ける。
僕の胸元にズリズリと擦り付けていた頭がピタリと止まったのが分かる。
「君と僕は、僕が死んだその時にたまたま恋人同士であっただけに過ぎないんだよ」

死は唐突且つドラマティックだから、全ての事象を引き付け、物語らせずにはいられないもののようだ。
でもね、全ては流れていくものだし、
そんな流れていく川のような世界の中で、僕達は流れに任せ、たまたま結び付いただけに過ぎず
そして流れのままにまた逸れていっただけに過ぎない。

「僕と君との恋が、運命だなんて思わないでね」

今日これまで僕と見てきた、多数の恋のように。

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