先週書いた話に、うちの実家家族を絡めるのもあれですが、ちょっと生々しい話をします。
三つ年の離れた妹は、娘ふたりがやっと小学生ではなくなりました。ちょうど一息ついたところで、頻繁に掛かってきた電話が静かになりました。
わたしには、妹の愚痴と、子育てを手伝っている実家の母のそれ、両方を聴き続ける役がありました。母は仕事を持っていて、妹は病気にもなったので、ずるずる仕方なくです。愚痴のステレオ録音です。おなじ事を全く別の角度から聴く練習と思ってないとやってられません。そもそも愚痴なんて、愚痴聞きした経験のある人なら誰でも分かりますが、似たようなところをぐるぐる回っているだけです。何を言っているかあまりわかりません。ゲロを撫で回しているような、これが元ニンジンだったことが分かったからと言って、何の救いがあるでしょう。何かがつらくて成仏出来なかったニンジン。下関(トイレ)まで辿り着けなかったニンジン。そんな具合です。
ある時、(不器用な)妹をもっと誉めてくれと頼んだら、母が素で誉めるところが見つからないと言い返します。彼女はもともと器用な質ですし、あまり失敗を見せようとしません。誉めるということは、絶対評価の通知表や源泉徴収なので、誰からも誉められることなら誉めるというリクツです。
矢野さんの誉めも、おそらくおじさん的(お仕事をする人)には源泉徴収だけど、おかあさんであるときはキャッチボールしてくれる相手だったと思うのです。
その時、電話の向こうのわたしも「それじゃない」が母に説明出来ず、途方に暮れ続けるばかりでした。しかし、それじゃないんです、絶対に。駄目なところを証明され(経験豊かで器用な親と比較して)、なおかつ下げて、元気が出ましょうか?元気が出ないというのが問題で、絶対評価は所詮他人の考えなのだけど、母が頑として拘るので困りました。
「おかあさんもほめられたいの」なんて奥が深いのでしょう。
元気が出るのは見守るちからに支えられているから。そういう魔法(祝福)と、妹の元気を消した力(呪い)と、同時に目の当たりにしてボーッと感心するばかりです。