僕のアパートメントにトカゲが住み始めた。
月が出る頃に、トカゲが少女になる。
眠りについた頃に、うっすらと聞こえる。
静かに布団に入ってきた彼女が、僕の親指を口に入れ、音を立てずに舐めている。
朝になる。洗面所の鏡に写っている自分をみつめながら昨夜の夢を確かめる。
白い和紙に落ちた墨の粒のような、真っ黒な彼女の瞳が浮かぶ。
「夢、これはきっと夢だ」顔を洗いながら口にするが、僕は自分の親指の異変に気がつく。
まるで長風呂からあがったかのように、親指がしわだらけだった。
東京に押し付けられた孤独から解放するためにトカゲが少女になるのでしょうか?
親指に染みついた唾の匂いは気のせいだろうか?秋の匂いがする。
カメラを持って、町に出かける。カメラを孤独な女、ホームレスと老人にしか向けない。
孤独な女は救いたくなる。ホームレスには同情をおぼえる。老人は… 老人には憧れが。
たまに人影のない道路で神をみかける。その時は胸が苦しくなり、シャッターを上手く切れなくなる。
その気持ちは愛でしょうか?あぁ、遠距離愛かもしれない。
家の近所にあるお店のディスプレイでは、水槽内の魚が自分の反射に頭を打ちつづけている。
クレヨンを持った子供が僕をみかけて走ってくる。僕のカメラに興味津々だ。
一枚撮ってあげようか?と言ったら、断られた。
子供が持っているクレヨンと、僕の「過去」を交換したいらしい。いいでしょう。
ニヤニヤしながら子供が僕の過去を持ち去っていく。クレヨンの箱には白と赤のクレヨンしか入っていない。
こうして僕は過去の無い人間になった。
家に帰る。
玄関の前に忘れてはいけない人の名前を書いてみたが、一つも思い出せない。
妙な気分だ。
夜がくる。空が真っ暗なスカートをあげ
月をさらけ出す。
トカゲが少女になり、僕の布団に入る。僕の手を自分の手にし、指を舐めはじめる。
叫び。
少女の叫びで起こされる。目をあけると少女が自分の舌を噛んで、唇から血を流す。
顎からおっぱいに、そしておっぱいから僕のシーツに血が垂れてゆく。
どうもクレヨンの粉だらけの僕の指の味が気に入らなかったらしい。
過去の無い人間は味がしない。
「裏切りもの」と処女の涙目が語る。
柔らかいクリスタルのような朝の空。夢から目をさめる。
布団の中にトカゲの死骸がある。
きっと睡眠中に向きを変えてたときに潰したのでしょう。