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2F/当番ノート

雲のミルフィーユ #03 “ミクロ天体観望会”

当番ノート 第14期

1989年4月20日 最高気温16℃ 最低気温7℃ 快晴

 今朝、アパートのポストを開けてみると手紙が入っていた。白い封筒には私の名前が書かれていたが、切手も差出人の名前も無かった。
 銀の封蝋を丁寧に剥がし、開けてみるとケント紙のような厚めの紙が一枚入っていた。

“恒例・ミクロ天体観望会ご招待のお知らせ”

 聞き覚えのない会合だった。その文字のすぐ下を読んだ。

“満月、日没後より開催。各々、夜食持参のこと”

 手帳を取り出し、月齢を確認した。満月になるのは今夜19時だった。しかし、この会合は一体どこで行われるのかが分からなかった。紙を裏返すと、動物園内の地図が書かれており、その中のペンギンエリアに赤い印が付けられていた。
 私は図書館へ行く予定を変更し、酒屋へ向かった。

 午后19時。動物園、ペンギンエリアへ到着。日もすっかり暮れ、白熱灯に照らされた園内は昼間とは違った表情に見えた。ピゴの部屋には煌々と明かりが灯り、窓から漏れた明かりが濡れたアスファルトにきらきらと反射していた。
「あなたも観望会へお越しですか?」
 声がした方を見ると、白いシャツを着た若い男性が立っていた。胸にはこの動物園のマークのバッジが光っていた。どこかで見た顔だと思ったら、ピゴの部屋の前にある小型のペンギン達が住むプールのエリアの飼育員だった。
「ええ、そうです」
 私は答えた。
「さあ、中へどうぞ。皆さんもうお揃いですよ」
 ピゴの飼育室にはいつもピゴとクローナしか居なかった。ピゴの担当の飼育員はほとんど部屋に入ることはなく、あの部屋は彼と彼女だけの空間であった。その飼育室に今日は私とピゴとクローナの他に5名が集まっていた。ペンギンプールの飼育員、ピゴの担当の飼育員、細いメタルフレームの眼鏡をかけタートルネックを着た男、ヘッドドレスを頭に載せた若い女性、それから園長。いつもは広々としているこの部屋も、今日は少し狭く思えた。ピゴは部屋をぐるりと見渡し、皆が集まったことを確認してテーブル中央にあるスタンドライト以外の部屋の明かりを消した。そして投影機とスライドを使って黒板に文字を投影した。

“皆様、お集り頂きありがとうございます”

 クローナは投影された文字列の周りをふわふわと漂い、彼女の形の影絵を作った。

“お夜食は何をお持ち頂けましたかね?”

 その言葉を合図に、各々が鞄の中から紙袋を取り出した。ペンギンプールの飼育員はフライドポテトを、ピゴの飼育員は赤ワインとクラッカーを、タートルネックの男はバゲットとバターを、ヘッドドレスの女性はレモンパイを。園長は何やら高級そうなシャンパンを持って来た。かく言う私は白ワインを一本持って来ただけだった。
「持ってくるものが被らなくてよかったですね」
 タートルネックの男が言った。
「さあ皆様、どうぞ召し上がって。今宵は無礼講ですから、手づかみで構いませんわ」
 ヘッドドレスの女性がレモンパイを勧めた。私はひと切れ皿に取り、ひと口かじった。レモンの酸味とメレンゲの甘さのバランスが上手くとれていて、私の好みだった。
「食事もいいですけど、皆さん今日の観望会の主役を鑑賞しましょうよ」
 ピゴの飼育員が待ちきれないといった様子で言った。ピゴはそれを聞いて頷き、戸棚の方へ歩いていった。程なくして、30センチほどの木箱と、小さな白く塗られた小箱を抱えて戻って来た。望遠鏡を入れる箱にしては小さかった。
「それは?」
「決まってるじゃないか、今日の主役だよ」
 園長が呆れたように答えた。
 ピゴが箱の蓋を開けた。中には黒と銀の光沢を持った顕微鏡が入っていた。どうやら、私は何か勘違いをしていたようだ。

雲のミルフィーユ_03

“今日はとっておきのミクロ天体がね、手に入ったのですよ”
 ピゴはそう文字を綴ると、白い木箱の蓋を取った。中には仕切りがいくつもあり、ぎっしりとプレパラート標本が整列していた。一同は感嘆の声を上げた。
「ピゴ、これはいいのを手に入れましたね」
 と、ピゴの飼育員。
「箱もいい。白いと中の標本が映えるね」
 ペンギンプールの飼育員はため息をついた。
「ラベルの文字もまた、この滲み具合がたまらんね。古びた紙の質感も素晴らしい。装飾が過ぎるものはかえって標本の美しさを損なう」
 タートルネックの男が言った。
「これは、どこの蚤の市で手に入れたのかね。こんな良いもののある店、君が独り占めするのはずるいんじゃないかね」
 園長はピゴに詰め寄った。
 ヘッドドレスの女性はその中の一枚を手に取り「良いわ…」と呟いた。
“今日の目玉はこれですよ”
 ピゴはそう綴って箱の中の一枚を掲げた。ラベルには「ムラサキツユクサの気孔表面」とあった。

雲のミルフィーユ_03_2

 ピゴはそれを顕微鏡にセットし、ピントを合わせ、テーブル中央の明かりに合わせて明るさを調整した。彼はそれをそっと覗き込み、満足げに頷いた(彼は唇を持たない上に目の位置が分かりにくいので、表情を読み取ることは難しかった)。
 それぞれが順番に覗き込み、感嘆の声を上げ、満たされた表情で笑い合った。そしてワインを飲み、クラッカーやレモンパイやフライドポテトを摘んだ。あれほどうんちくを語っていた皆は、それを覗き込んだ後は「いいね」としか言わなかった。
 しばらくして私の番が回ってきた。私は目を押し付けないように気をつけながら覗き込んだ。
 全体に広がった明るい青色をした繊細なレースのような繊維。無数の星のようなマゼンタの点も見られる。スタンドライトの光を受けて、全体がぼうっと光っていた。顕微鏡やプレパラート標本は自分の研究でも扱うものだったが、この薄暗い中、アルコールを煽りながら見るその光景はいつもより美しく見え、特別に思えた。
「綺麗ですね」
 私はため息をつきながら言った。それ以上の賛辞の言葉が見つからなかった。

“望遠鏡と顕微鏡。両者の違いは何でしょう。前者は遠くにある大きなものを見る為のもの、後者は近くにある小さなものを見る為のもの。一見、正反対の性質に見えます。しかし両者は向く方向こそ違えど、同じではないでしょうか”

 黒板に投影された文字の中を、クローナは楽しそうに泳いでいる。金色の光沢を持った赤い鱗は、アンタレスの赤い輝きによく似ていた。
 手のひらの中には無数の宇宙が広がっていた。そしてそれは各々の頭の中も浸食していった。
 薄明かりの、ミクロ天体に囲まれた小部屋の中で、楽しい夜は更けていった。

鯨窓机(とりかわつくね)

鯨窓机(とりかわつくね)

「部屋から一歩も出ずに無菌室的世界の極地・南極を感じる方法」を研究テーマとしたアートユニット「第二極地観測所」主宰。9月1日より筆名を「鯨窓机」と改名。

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