パンパンに張った二個のスーツケースを引きずりたどり着いたシドニー。まるでそこはテーマパークに迷い込んでしまった様な感じがする不思議異空間だった。圧倒的な白人文化が街中に溢れかえっていたものの、そこはアメリカとも違う、イギリスでもない、カナダとも何かが違った。ハワイに似ているのだけど、何故かぼくは空気の中にそこはかとなく乾いた鉄の赤さびが朽ちてゆく気配をいつも感じた。そんな中で唯一の救いはオーストラリアのダイナミックな自然、ユニークな動植物達、そして毎日バルコニーにやって来るようになったRainbow Lorikeet (虹色インコ)達だった。オーストラリアの大らかで実直な自然が身近になかったらぼくはシドニーでの日々を生き抜けなかったと思う。
朝起きるとビクトリアンスタイルの家の目の前に広がる表情豊かな青い海、オペラハウスとシドニーブリッジを眺めながら二度の四季を過ごしたCremorne Point という街はシテイーへの通勤に使われるフェリーの小さな発着所があって、制服に身を包んだ中学生の子供達や金融街へ出勤する投資銀行家などの通勤者が毎朝毎晩、同じ時間帯に同じ顔ぶれを見せていた。
ぼくの知っているシドニーの人々はとても地に足がついていて派手で目立つ事を嫌い、プライベートで保守的な感じのする人が多かった。乾いた空気と夕闇迫る頃の圧倒される様な空の向こう側まで透けて見えそうな空の美しさ、Laughing Kookaburra という頭のとても大きな鳥が同じ時間に人が笑い声を立てるかの様な声で繰り返し鳴く早朝の自然目覚まし時計など、シドニーの良い思い出達として一生忘れないと思う。シドニーでの日々は試練の連続だったけれども、シドニーでの楽しかった思い出達はぼくの胸の奥で遠くに光る夜の燈台の灯火の様に暖かに燃え続けている。
シドニーに着いた当日、彼は数時間後すぐに出張で出かける事になっていたので、一息つく間もなく車で食料の買い出しに連れ出され、その晩からおおよそ二週間いきなり一人っきりの日々が始まった。新しい家は可愛らしいビクトリア形式の二階建ての家の二階で、目の前に青く広がる海とその向こう岸の植物公園から大きなフルーツバット(キツネの顔をした果物を食べる大きなコウモリ)が集団で夕方になるとこちら側へやって来る様な高台に立ち、新年になると恒例のシドニーブリッジからの花火をバルコニーから見る事が出来た。翌朝、一人っきりのぼくは部屋をひとつづつ見て回った。天井がとても高く、部屋の数の多さに身の置き場がない様な、そんなソワソワした感じも覚えつつ、ここまでやって来たんだ、という感慨もあった。知り合いも全くおらず、地理的感覚もまだなく、これから先の事もまだ全然見えていない完全な見切り発車だったけれども後ろを振り返る気持ちは微塵もなかった。
新しいシドニーという街への好奇心も日々正常化してくる日々の生活の中であっという間に毎日対処すべき雑用の一つとなっていった。次第に薄いプラスティックの膜に覆われているカプセルの中で住んでいる様な、そんな閉塞感をシドニーという街に感じるようになるのにもたいして時間はかからなかった。オーストラリアという国には居心地の良さとは別に何か外界から完全に隔離、遮断されたかの様な心理的な窒息感があってその感覚は絶えずぼくに付きまとった。
一度、シドニーでぼくは自宅の二階のベランダから転落してしまった事がある。ある早朝、アメリカへの出張で5時ころ家を出てタクシーに乗る彼を見送って手を振り、さあ門を開けて家へ入ろう、と思った瞬間、鍵を忘れてしまったことに気付く。彼はもうタクシーに乗ってしまっていてここにはいないし、さっきまでの浮き立った気持ちは完全に消え失せて、目の前にある重い鉄の扉とその向こう側にあるさっきまで自分が寝ていた部屋の半開きになった窓を信じられない様な気持ちで見上げる。何とか扉は乗り越えられたのだけど、二階に続く玄関の扉の鍵はどうにもならない。時間はまだ朝の5時半。家主を起こす事も憚る時間だし、シドニーと言えども冬は10度以下まで気温は下がり吐息も白くなるほど寒い。ぼくはまだパジャマのままだった。しばらく玄関先で思案した後、二階のベランダへ続くリビングルームの窓が開いているかもしれない、と思い立って木の柱をよじ上ってバルコニーまで上れば何とかなるかもしれない、と思った。朝露に湿った白いペンキで塗られた柱は思いの他滑りやすく、バルコニーの床に手が届きそこから体を乗せ上げよう、と力を指に入れた瞬間、見事に指先は掴むものを失ってぼくの体はまるでストップモーションを見るかの様に重力に逆らう事なく堕ちて行って下の階のバルコニーの手すりに腰を強く打ってまた宙に跳ね返り、それから地面のブロックに激しく叩き付けられて暫く呼吸も出来ず空を見上げたままうめいていた。何かほとほと情けなく、「ああ、今、ぼくって本当に一人なんだな」と思った。ゆっくりと立ち上がり頭やその他から流血していない事を確かめる頃には、陽もやっと登り始めていた。部屋にやっとの思いで戻った後、鏡に全身を映すと腰の部分が濃い紫色に内出血していて、少し動くと体の内側から疼き、痛んだ。そのあざが消えるのには一年以上もかかった。
ぼくはその当時、仕事を離れて健康保険にも入っていなかったから歯が痛んだ時には激しい痛みに耐えながらも何か、その痛みが自分に課せられた罰の様な気がしてただひたすら一人、時がぼくを忘れ去ってくれるまで耐えた。痛みに耐えている間は何も考える事も出来ず痛みのなかった世界など信じられない様な感じがした。その痛みはどういう訳かいつも彼が出張で家にいず、一人でいる時、そして激しい嵐がシドニーの街を襲う前日などに訪れた。よくアフリカの部族の大人になるための通過儀礼に痛みにひたすら耐える儀式があったりするけど、何か似ている感じもそこにはあった。ちょっと前まで自分を守ってくれていた社会的な地位とか肩書きがはぎ取られて今は素の裸の自分しかいない、という感覚は痛いほどあった。今まで世間体を常に気にした生き方をして、名の知れた大学に行って大企業に務め、世に言われる教科書通りの進路をひたすら踏み外さない様に生きて来た日本での生活を享受してきたぼくにとって、シドニーでの日々は何から何まで新しい経験、感情の連続だった。
そこまでして行ったシドニーだったけれども、ぼくの到着した頃には彼の奥さんは既に近所に自己紹介を済ませていて、大家も近所の人達もぼくを彼女の親戚の一人と思い込んでいた。ある日、彼がオフィスから車で帰って来て車のエンジン音が台所から聞こえた後、彼の靴音がするので驚かそう、と家の中で隠れてドキドキしながら彼がドアを開けて入って来るのを子供の様に待っていた。10分ドアの影で待って20分待っても一向に彼は家に戻って来ない。今思うと、30分も待っているなんて本当にどうにかしているのだけれども、当時は新しい生活が始まり、うれしくて仕方なかったからそれはまるで新婚さんの気分だったのだと思う。不思議に思ってガレージに降りてみるとそこには車もあってエンジンからは熱も感じる。「あれれ?」と思いながら、もと来た路を戻り、暗い足下からふと目を上げると大家の住む上の丘のユニットが珍しく明かりで照らされて陽気な笑い声やお皿の触れ合う音がしていた。
「明るい生活があそこにはあるのだな。」とそれが別世界の様に一瞬羨ましく思い、一人部屋に戻った。深夜近くなって彼が戻って来る。ぼくは彼が帰ってくるのを待っていて夕食をまだ食べてなかった。テーブルの上には冷め切った食事がその時のぼくの心みたいに色合いを失って置かれていた。彼はあらかじめ大家にパーティーに呼ばれいてぼくには声をかけずに一人でその陽気な時間と空間を楽しんでいたのだった。その話しを聞いた時、ぼくは哀しくて仕方なく、家を飛び出し誰一人いない真っ暗な浜辺で一人ぼっち、空の星達を見ながらさめざめと泣いた。南十字星を追いかけて来たぼくだったけど、当時の彼は本物の南十字星の様に迷える旅人に指針を示してくれることは決してなかった。彼自身が迷える旅人だったのだから。ぼくには帰る場所はなかったし、あったとしてもここから立ち去ることはなかったと思う。長い間、暗い海辺で星空を見上げていると、当初は何も見えなかった真っ黒な夜空に目が慣れて来て次第にたくさんの星達が現れ出て来て、独りぼっちではない様な気がした。
その当時の彼はまだゲイということに対して恥じと自己否定の意識がすごく残っていたのだったけれども、ぼくの方は覚悟を決めてゲイのパートナーとして彼といることを選んでいた。彼がぼくと同じレベルの所まで来ていない、というギャップに当時のぼくはまだ全く気付いていなかった。彼が大家にぼくを紹介する事は当初、全くなかった。そして会社の同僚達にもひたすら隠し続けていた。その事実にぼくの方も気付いていなかったからその現実の乖離が時たま、思わぬ形で露わになる時のぼくのショックと混乱はとても大きかった。彼は会社でのレクリエーション活動などでほとんどのシドニーの観光名所は訪れていたけれども、ぼくはどこにも行った事がなかった。今思うと一人で行けば良かったとも思うのだけれども、ぼくは本当にローカルなレベルでとても濃い生活を日々送っていたから観光など思いも及ばなかった。
その日、シドニーは朝から一日中嵐が吹き荒れ、窓から見える海の表面はホワイトキャップと言われる白いさざ波で一面が覆われて、猛烈な低気圧の接近による家の中と外との間の気圧の差のために窓枠は今にも外れてしまいそうに音を立てて軋み、ぼくは天気のせいからか一日中、重い頭痛に悩まされて何もする気力が出ずにいた。夕方近くになってベットから起きだすと、灰色の海の上に低く分厚く立ちこめる雲の合間から、救いの手を海の一点へ向けて差し伸べるかの様な美しい一筋の強い光が漏れ落ちていた。一人その透明な一筋の光を見つけた後、全身の気力をふり絞って服を着替えて外へ出てみた。外は琥珀色の空気があたりを立ちこめて、肺の中へ新鮮な酸素達が流れ込んで来るのが感じられた。頭の重みが次第に軽くなってくるのが分かる。ニュートラルベイにあるコーヒーショップに行こう、とフェリーの発着場から緩やかに続く坂を登り始め、雨の後、辺りに香るTea Tree が放つレモンの様な香りに気を取られていると、左側の木の戸が思いがけずに音をたてて開いた。驚いて顔をあげてそちらの方に目をやると、そこにはまるでさっき見た一筋の光の様に美しい笑顔をした老婦人がぼくの目の前にいた。
「こんにちは。」と彼女がぼくに言葉をくれた。
ぼくはその日、この彼女とのほんの短いやりとりだけで救われたと思った。誰かがぼくの存在を認めて、笑顔を投げかけてくれた。ぼくにはそんな a little kindness でさへ魂を揺すられる様な思いだった。思いがけない時に与えられるふとした親切、笑顔が人を救うこともあるのだ。本当に美しい笑顔の人だった。
その頃まだ彼は二重生活を続けていて、ニューヨークにいる奥さんとの生活とシドニーにいるぼくとの間で二つのparallel world を生きていた。以前の通り、彼はマンハッタンに一歩足を踏み入れると一切の交信を絶って消え去ってしまうのでぼくにとって、ニューヨークは未だに鬼門の様な場所だった。
未だに忘れられない出来事がある。シドニーの家に着いた当初から部屋の片隅には枯れた草花や木が生けられていた。いつも彼が「これらの硝子の花瓶は彼女がデザイナーに特注して彼女が作った花瓶ですごく高かったんだよ」と自慢していた。ある日、ふと彼の口がすべってこれらの枯れた草花は、以前彼女がいた時にシドニーの知り合いの人達を招いて新居のお披露目パーテイーをした時に彼女が生けた花達、ということを話した。これを聞いてぼくは怒り心頭に発した。
ビニール袋に次から次へとグニャリと曲がった溶岩の様に重い大きな硝子の花瓶を投げ込み、目を白黒させている彼の横をすり抜けて塵捨て場へ突進する。部屋に戻ってくると何か聞き慣れた音楽が遠くから聞こえて来る。彼は血相を変えて慌てて外へ飛び出した。その音楽はあっという間に部屋の真下から聞こえる様になり、大きな物を投げ入れる音とそれを取り込む回転音がして、トラックのエンジンの音が遠のいて行く。暫くして手ぶらで戻って来る彼。
その日は運良く(?)粗大ゴミの回収日に当たっていて、ぼくがその花瓶達を捨てたタイミングですぐに回収車が来て、彼が塵捨て場に着いた時は既に何もなかった、と言う事で、未だにこのエピソードを思い出す度二人の様のあまりの滑稽さに笑いが出てしまう。
この時点で、彼は奥さんとぼくの間に立って現状維持が精一杯という状況だった。奥さんの方も、彼がニューヨークに定期的にやってきて彼女と公の場で夫婦を演じて皆に二人でいる姿を見せる約束を果たす限りぼくとのシドニーでの生活を許す、という暗黙の了解を二人の間で結んでいるようだった。ぼくには耐えられない状況だった。そしてこれらは、最初から彼が話してくれて分かった事ではなくって、時間をかけて様々な混乱を通じて徐々に分かって来たことだった。
ひっきり無しにシドニーの家に届く彼女宛の郵便物。部屋のクローゼットには彼女の衣服がそこかしこに置いてある。ぼくは彼が出張で留守の間に彼女の全ての所持品を地下の倉庫にまとめた。彼と彼女の二重生活に加担するのはまっぴらだった。
楽しい事も勿論たくさんあった。毎週末、ぼく達は新鮮な果物や野菜をたくさん買うために車で野菜の卸売り市場へ出かけて行っていた。そこには卸業者は勿論のこと、たくさんの移民の人達も新鮮で安い生鮮食品を求めてやって来ていて、まるでギリシャの市場か又は中華圏のどこかオーストラリア以外にいる様な感じさへする活気に満ちたエスニック感満載の活気ある楽しい市場だった。個人的にオーストラリアで収穫されるマンゴーの美味しさは世界一だと思う。その大きさ、甘さと香りは、インドやミャンマーで穫れる小粒のマンゴーの繊細さとは異なった美味しさだ。
香しいマンゴーの季節になると箱一杯に詰められたマンゴーを買って毎日朝昼晩と食べ、食べきれない残りはジャムにしたりした。そのマンゴーと並び、オーストラリアのトマトも美味しく、オーストラリアの強い日差しを浴びて熟したトマトは目にも鮮やかな赤さで水色の台所のカウンターの上には常にトマトを常備していたから、目をやる度に思わず笑顔になってしまうほどの素敵な色合いだった。ある日、彼がまたまた出張で家を一週間ほど留守をしていて一人ではとても食べきれない量のトマトが残っていたので、大量のトマトを一滴の水も加えずただひたすら弱火にかけて余分な水分をとばし、色と味濃いトマトソースを仕上げて台所で一晩、熱を冷ましていた。翌朝早く、ドアの鍵を開ける音がして「あ、帰って来た。」と思いつつもベッドの中でウトウトまどろんでいると、今度は台所から何やら物音がしている。眠気眼をこすりながら台所へ入ってみると、そこにはぼくが2日かけて煮込んで完成させたトマトソースの中に大量のリンゴ酢とベルモント印のトマトケチャップを混ぜて悦に入っている彼がいた。ぼくはといえば、もう怒る、というよりもその光景が可笑しくって笑い出してしまった。勿論、もう食べられた代物ではなくて残念ながら全て破棄するしかなかった。料理は上手い、と自負する彼だったけれども、ぼくからするとひどく料理に対する感受性が鈍く、味に対する想像力がイマイチ欠けている所がとても彼らしくって、料理にもその人の人となりが現れる、ということも面白いと思う。
彼は料理をするとき、自分の興味本意にいろいろな物を加えたりして、まるで研究室で科学の実験をしているかの様な料理の仕方だ。ぼくは、何方かと言えば、食べてくれる人の笑顔を思い浮かべながら、その人の好みを考えて食べてくれる人の幸せのために台所に立つ。こんな所にも二人の違いが表れて料理は本当に奥深く面白い、と思う。
年の暮れも差し迫った頃、彼がサンクスギビングの感謝祭にぼくを連れてメイン州にある彼の両親の住む家に行くことになった。彼の家族の事は話しに良く聞いて知っていたけれども、勿論それまでぼくは彼の両親には会った事はなかったし、少し時期尚早な感もあったのだけれど彼の方が珍しく乗り気だったので、これはこれから先のぼく達二人の生活に加速度をつける覚悟が出たサインなのかも、と思い緊張しつつも、シドニーからアメリカ東海岸へと飛び立った。
ぼく達が彼の両親の家へたどり着くと、彼の弟夫妻、妹夫妻とその子供達、そして彼の両親がぼく達を暖かく迎え入れてくれた。彼の母親は日本語の大学教授で父親はボストンのケンブリッジにある名門大学でやはり教授職につく人だった。彼と知り合ってから初めて過ごす彼との感謝祭だった。
ぼくを彼のゲストとして暖かく受け入れてくれようとする優しさがそこかしこに感じられて、彼のお母さんと初めて会い、いろいろな事を話すうちにとても打ち解けた温かい感情も感じるようになった。彼の弟夫妻の家の即席エアーベッドで眠り、翌日はフリーポートという漁港近くのデイスカウントで有名な街にあるLLビーンズのアウトレットへ彼の妹夫婦と連れ立って行った。ぼくも勿論、ボストンに住んでいた頃に良く来た所だったからとても懐かしく、そしてここにこうして彼の家族と一緒に来れたことにすごく不思議な心地がした。ここには母がぼくのボストン留学時代に遊びに訪ねて来てくれた時に連れて来た事もあった場所だったから、母のことも思い出さずにいられなかった。
後から知ったことだったのだけれども、この季節ここに彼の家族とやって来てショッピングすることは彼の奥さんにとっても年中行事の一つだったらしい。その年は彼との別居が始まっていて、彼がアメリカに来ている事を知らされていなかった彼女はニューヨーク郊外の別荘に留まっていた。彼の妹さんはソバージュをかけた金髪の髪を束ね、ちょっとそばかすのある青い瞳の聡明で知的な、とても美しい女性だった。そしてその彼女が、「昨年まで兄の奥さんがここにこの時期来ていたのだけど、これからはあなたが来るのよ。こんなに嬉しそうな笑顔の兄を見るのは久しぶり。兄の事をこれからもよろしくね。」と言ってくれた。
満ち足りた気持ちで彼の両親の家に戻ると、キッチンに皆が集まりなにやら不安げないたたまれない表情でソワソワとしている。ぼく達がフリーポートに行っている間に奥さんから彼の弟に電話があって、それまで何も知らされてなかった奥さんにぼくが彼と一緒に今来ていて、昨年まで彼女が行っていたフリーポートに今年はぼくが行っている、と言う事をどういうつもりか彼の弟が彼女に話し、それを知った彼女は怒り心頭らしい。ぼくには未だにどうして彼の弟がぼくが来ている事を当日になって彼女にすらすらと話してしまったのか良く分からない。
彼のお母さんは完全に取り乱してしまっていてぼくの目の前で彼に向かい「彼女はまだあなたの正式な妻なのだから、あなたは彼女の所に行って会って来る義務がある。」と断固とした調子で命令する。居場所のないぼくはまるで透明人間の様にしているしかなかった。
気まずい沈黙の後、彼が翌朝車で彼らの別荘まで行って彼女に会う事を約束した。その翌日はぼく達にとってアメリカ滞在最後の日だったから、ぼくはゆっくりと気持ちと体を落ち着けてここに来れて彼の家族に会えた幸福感を味わってみたかったのだが思わぬ展開に巻き込まれてしまった。
翌朝早くに車に乗り込み、ひたすら高速道路を走り家を出て五時間ほどたってやっと車は彼らの別荘のあるニューヨーク郊外の小さな可愛らしい街へたどり着く。典型的なアメリカ郊外の街らしく、街の中心部には可愛らしい白い教会が建ち、その周囲を個人経営のお店が立ち並んでいる。「ここが今まで見た事のなかった彼と奥さんの住む世界なのか」と思いながら周囲をゆっくりと見回す。辺りは真っ白な雪に包まれて細かな雪の粉達が宙を舞っていた。一人ぼくをコーヒー店に残し、彼が再び車に乗りこんで彼女のいる別荘へと向かうのを見送る。コーヒー店の結露で曇った窓ガラス横のテーブルで並々と大きなカップに注がれたコーヒーの上澄みをすすりながら外を眺める。
そのコーヒー店の隣には小さな映画館があった。見上げるとそこには「Brokeback Mountain」というゲイのカウボーイ達の実らぬ愛と二人の間の強い魂の絆を描いた映画の看板があった。看板に描かれた二人のカウボーイの哀しげな横顔を見ながら4時間ほど経ち、コーヒーカップの中味もとっくに空っぽになっている。映画館から出て来た見知らぬ男性と目がふとあって、自然なこぼれる様な笑顔を受け取ってぼくの心にも少し暖かみが戻って来る。
それからまた暫くしてやっと彼がドアを開いてぼくの元に戻って来たけれども、彼は今朝着ていた青いシャツとは違った緑色の長袖のシャツを着ている。帰り路、車の中で彼の冷たい手がぼくの唇に触れる。重い口を開き、彼に何をしてきたのか聞いてみる。彼は奥さんに言われた庭の掃除や屋根裏部屋の整理やケーブルテレビの配線などをこなした後、汗をかいたので服を着替えて来た、と言う。その奥さんのいる別荘に彼は汗で濡れた服を残し、まだそこにある代わりの自分の服を着て帰って来た、という事実に彼の生活の一部がまだそこに存在する、という現実が否応無しに感じられた。
4時間もその様な雑用のために寂しく見知らぬ街でただ一人、彼を待っていた自分をどう扱ったら良いのか分からなかった。ぼくの頭の中では彼は奥さんと話し合いの機会を持つために、または離婚書類を交換するためにはるばる時間をかけて車でここまで来たのだと思っていた。それがただ二人の現状維持の継続のためだけのものだったと分かった時、落胆と同時に心の一部が麻痺してしまった様な気持ちがした。
彼の両親の家にやっとの思いでその晩たどり着く。ぼく達は疲れはてていた。溢れんばかりの好奇心と同情心が複雑に折り重なっている人達の中に戻り、フォーマルな夕食のテーブルに各々が着いた。食事の中頃になって、彼の弟の携帯が鳴り弟さんがその電話に出て何やら話している。暫くしてその携帯をテーブルのはす向かいに座る彼に手渡しながら、「兄貴の奥さんからだよ」と皆に聞こえる様な大きな声で手渡す。ぼくはその状況に面食らってしまったと同時に、この弟さんの破廉恥さに対して憤りを覚えた。ぼくの存在自体が破廉恥なのかもしれないけれども、ぼくも尊敬に値する一人の人間なのだ、という自負もあった。暫くすると彼の笑い声と、最後に「サンキュー」という声がぼくの耳に届いた。とても嬉しそうな目をしている彼を見ながら、ぼくは自分をその場から消し去ってしまいたかった。彼はどうしてぼくにこんな思いをさせるのだろうか。彼女に「ありがとう」と言うのはどうしてなのだろう。皆がall ears になって一心に耳を傾けて会話を聞き取ろうとしていた。ぼくはその晩、何を食べたのか全く思い出せない。ただ顔から火が出るほど恥ずかしかったという記憶と、自尊心がまたまた打ち砕かれて彼女とのランク付けで最下位に皆の前で蹴落とされた様な敗北感が残った。ぼくは一体ここで何をしているのだろう、と思った。
飛行場に向かうぼく達を見送る彼の妹夫妻の目の中には同情心でいっぱいだった。ぼくは元気に手を振ってみたけれどもとても寂しかった。皆の気持ちは彼女の元にある、という事を切実に感じた。ぼくは彼らにとっては得体のまだ知れぬ興味深いゲストの一人に過ぎなかったのだと思う。ぼくはいつか、皆に受け入れられて彼のパートナーとして祝福される日は本当に来るのだろうか、と疲れはてた体を飛行機の座席に横たえながら一人考え続けた。
シドニーに戻ってから間もなくして、文字通り崖から飛び降りる様な人生の中での大きな転機がぼく達に訪れる。ぼく達にとって最大のピンチが 〜