ヨチヨチ歩きの子供の頃から植物や昆虫、動物と触れ合う事が大好きだった。人といるよりも自然の中で一人、命ある全てのものが見せる穏やかさ、静けさや時折垣間見せる生死をかけた荒々しさを、静寂な森の中で肌から、目から、呼吸から、そして流れ出る汗から感じ取るのが今でも好きである。今、私は40代半ば、そんなに長い人生を生きてきた訳ではないから、これから先の道はまだまだ長く、人生の道半ばなのかもしれないし、今、こうしてこの連載を書いている途中にあっけなく人生を終えてしまうのかもしれないけれども、旅の様な不確定さが人生の本質なのだとすれば、この一見不確かに見えるぼくの人生も、なかなか良く生きてここまでたどり着いたものだ、という感慨もあったりする。
私の父は自死という道を選んだけれども、私は父と違って生き抜いて様々なものを見て、愛する私の家族と私の大切なパートナー、そして大切な友人達に自分の心と思いを分け合いながら最後の瞬間まで生ききりたいと思う。
だから、この連載で私はたまたま生まれつきゲイ(just happen to be gay) であるけど、その事で自分を貶めず、自分にとって心地いい人生、他人からの期待や要求でがんじがらめに鎖で繋がれた人生でなく、両親を喜ばせるためだけでもない、社会的抑圧に迎合した良い子ちゃんになるでもない、枠をはみ出る事=人生の終わりじゃない、という世間一般でいう社会にとって都合のいい「成功」という曖昧な言葉に惑わされない人生を遅まきながら生きることの大切さを、これから読んでくださる人達に少しでもお伝え出来たら、と思います。何故なら、世間体と親の欲求のみに過敏に反応して、彼らからの反応を通してでしか、自分の立ち位置を確認出来ず、安心感を得るがためだけに只只がむしゃらに周囲の期待に応えてある時期まで生きて来たのがぼくだったのだから。
今、第一回目のこの連載を書くのに、私はシンガポールのオーチャード通りと言われるキャピタリズムの権化の様な浅はかでけばけばしい人工的な空間の中で、居場所が見つからない猫の様に居心地悪く、これまた雨後の竹の子の様にどこにでも生い茂り遺伝子操作されたご都合主義で作り出されたツルツルで風味乏しい野菜の様に味気ないスタバの店の片隅の席に一人座りながら、この第一行を書き始めました。
この連載は、僕がゲイであるという自分の一部を受け入れて、アメリカ人パートナーと互いの両親、家族に受け入れられ祝福され結婚に至までの長く、孤独で険しくも、互いの国籍もバックグラウンドも異なる不器用だけれど愛に満ちた二人の旅路のお話。最後までおつきあいいただければ幸いです。〜