引っ越して来て始めの数ヶ月は挨拶を交わす程度で距離を置いた付き合いだった。彼女の部屋の前を通るといつも開け放した窓からEva Cassidy やSting のFeilds of Gold の曲がそよ風がレースのカーテンを揺らしながら流れ出る様に聞こえて来た。クチナシとイチジクのキャンドルを燃やす香りがいつもそこはかとなく漂っていて、何かスピリチュアルな波動を心に感じた。
ぼくは始めの頃はいつも独りぼっちだったし、何か不思議なアジア人が、時たま現れるアメリカ人男といるな、とぼく達の事を不思議に思ったに違いない。しばらくすると、何度も彼女の方からぼくをアフタヌーンティーや食事に誘う様になった。大輪の鮮やかなダリアの花の様な彼女は周囲を明るく照らして和やかにするダイナモの様なパッショネイトで美しい女性だったけれども、決して押しの強い一方的な女性ではなく、人の心の機微も感じ取り、労る心の優しさも持った人だった。
ぼくが何故シドニーに来たのか、彼との間での心の葛藤や彼の奥さんの話しなどを少しづつ話したりして、誰よりも互いを知り合う親友、soul mateの様になっていた。今でも会う事はなくとも思い合う心と魂の共鳴音はいつでも感じ合っている。
その彼女がある日、どうして一人でこの家に住んでいるのか、という経緯を話してくれた。その話しの内容は聞くものにとってさへ心痛むものだったから、その話しをしてくれる彼女は自分の心が再び痛みを覚える事を覚悟の上だったに違いない。辛い過去の出来事を話す事で再びその事柄を追体験することは出来れば避けたい事だったと思う。当時、彼女はその心の傷の癒える日をただ静かに痛みの中で待ち望みながら生活していた。
彼女にはテイーンエイジャーの一人娘がいた。彼女の娘さんが学校のフィールドトリップ(遠足)に行って暫く経ってから学校から電話がかかって来た。「娘さんが落雷で倒れた木の下敷きになって亡くなられました。」
その知らせの瞬間、彼女の世界は音もなく崩壊した、と彼女は言った。愛しの我が娘。命よりも大切な我が娘、我が分身。その朝、つい数時間前に家を出る時、明るい笑顔で「ママ、愛してるわ。行って来ます。」と出かけたばかりだった。なんの前触れも予兆も理由も無しに、目の前から突然いなくなってしまった。
娘さんは明るく、周囲にいつも優しい気遣いをしてクラスで人気者だった。今でもたくさんの彼女の友達が彼女の命日に、誕生日にメッセージと花束を持ってやってくる。彼女はその事故の後、長年連れ添った夫と離婚をし、思い出のつまった家を売り払い新しい環境で、眺めのいい高台に建つこの家で娘の思い出とともに生きていた。
ぼくは日本から持って来たぼくの描いた蝶々の湯のみ茶碗を彼女の娘さんの誕生日の日に、ドアの前にカードを添えて置いておいた。暫く経って下の部屋のドアが開く音がして彼女がプレゼントを見つけたのが分かった。それからまた暫くしてからぼくの部屋のドアをノックする音が聞こえてドアを開けると、そこにはライラックとオリエンタルリリーの花束を抱え、目に涙を泉の様にためた彼女が笑顔で立っていた。その日以来、ぼく達はいつどこにいても結ばれていると感じている。
彼女の娘さんのお墓の上に舞い降りた一匹の蝶々、その蝶は娘さんの分身だったに違いない、と彼女は言った。
彼の奥さんとの離婚調停は未だにいつ終わるとも分からない不毛なやりとりが続いていた。
彼の奥さんは無理難題を彼に押し付ける事で離婚を彼に諦めさせようとしていたから、ニューヨークとシドニーという地理的距離もあって彼も何やら一生懸命な振りをするだけの、次第に周囲の目には真剣味の欠けた、受験の意志のない予備校生の様に見えて来ていた。そういった時期に起った一連の事故と入院騒動で一気に歯車が勢い良く回り始めた。一度、回転が始まると連鎖反応で次から次へとその勢いがそれまで鈍い回転しかしなかった車輪に勢いを与えて、その動力は周囲にもどんどん影響を与えて行って思わぬ”陽の波紋”を生み出していった。
それまであまり乗り気でなかった彼の家族、どちらかと言えば彼の奥さんに同情的だった人達も彼の背後でがっちりと彼を支えてくれる様になっていった。それまで「あなたが彼女を離婚したら、典型的な日本女性の彼女は死んでしまう。」と本気で言っていた彼の家族達も、実は相当に強かな彼女が取る一連の策略とそれを実践するためのすごい行動力を目の前で見せつけられて、彼らの態度も一気に変わっていった。彼女は離婚を進める条件として決してニューヨークの周囲の友人達には離婚の事実を知らせない事、という妙な条件までつけてきていた。
ぼく達はアメリカにまだある彼の荷物を確認するために、彼女のいない日に彼らのカントリーハウスを訪れた。緩やかな丘陵に牧場が広がり、彼らの敷地の入り口からうねうねと続く200メートルほどの歩道の先に彼らの別荘があった。その広さはまるで目が眩むばかりだった。
歩道の両側には彼らが植えた八重桜の花が満開だった。彼はそれらの桜が咲いたのを見るのはその年が初めてだ、と感慨にふけっていた。
家の鍵を開けて玄関に一歩脚をいれると、先に家に入った彼が「ぎゃっ!」と声を立てた。
玄関にはあたかも彼が今そこに住んでいるかの様に至る所に新しい男性用の靴が置いてあった。客間には彼の名前で予約購読された雑誌が目のつく所に置かれ、また彼らの結婚式の写真や二人のツーショットで写っている写真がいっぱい飾られて、もし何も知らない人がここを訪ねたならば彼が今もここに一緒に住んでいるに違いない、と思うはずだ。これらを見て、彼がぽつりと呟いた。「彼女にとって僕は愛の対象以上に、ステータス、僕との関係を他者に誇示、顕示することで得られる社会的優越感のための道具の一部だったのかな」と。始めは何か滑稽な感じでぼくもそれらを眺めていたのだけど暫くすると少し、背筋が寒くなる思いがした。
家を離れて車で運転している最中、ふと彼を見ると、彼は涙をいっぱいに浮かべるや否や、おいおいと泣き出した。目を真っ赤にして泣いている。離婚そのものに対する後悔の念からではなく、家を手放す、彼女に家を譲ってしまうことで二度とこの家、血と汗を注いだ彼に取っては自分の分身の様な家と、今生の別れになる事が哀しかったのだ。
彼がアメリカ南部出身の人間、ということは普段の生活では忘れているのだけれども、こういった時に彼が家に、土地の所有に対して並々ならぬ深い愛着と執着を持つ側面が顔を覗かせる瞬間、彼の南部魂をみる思いがする。家と土地を手放すことは自分の一部を失うことなのだ。
彼のお母さんがまだ彼と彼の奥さんが離婚する本当の理由をシドニーに来て知る前、「彼女は別れた後は家を持てないから、あなたは家を全てあげなければならない。」と言ってしまって財産分与の話し合いも、家は彼女のもの、という前提から始まってしまっていたからもう引き返しがつかない。彼女との生活が暗礁に乗り上げて辛い時も彼はひたすら日常からの逃避のために週末のほとんどをその家のために費やした、といっても過言ではなかった。
彼のお母さんも「もし私の息子が結婚生活の実体をしっかりと私に伝えてくれていたならば、彼女に私の母と祖母の結婚指輪をあげたりしなかったのに。もう二度と、あの指輪達を見る事はないのね。とても大切な形見だったのに。」と暫く宙を見た後、きりっとした表情で「あれはもう済んだこと。くよくよしない。」と前を見つめてシドニーでぼくに言った事がある。今回の離婚劇で、大切なものを失ったのは彼だけではないのだ。
おいおいと泣く彼だったけれども、帰りの飛行機の中では「これで良かったんだ。」とすっきりとした顔でいう彼を見て、あの母にしてこの子あり、と心の中で微笑ましく思った。愛着は残すけれど決して後ろは振り向かないという両者に共通する特徴に南部の人の土着の強さをみる思いがした。彼の家族は母方も父方もどちらもアメリカの南北戦争以前から南部アメリカに住むイギリスから渡って来た最初の人達だった。そのブルーブラッドとしての誇りとでも言う様な誇りと強さは、まるで映画「風と共に去りぬ」の登場人物達を思わせた。
Tomorrow is another day. 明日は明日の風が吹くのだ。
ぼく達には未来があるのだ。
彼らの別荘は彼の過去の象徴。もう捨て去ったのだ。彼女は彼の幻想と伴に過去に留まり生き続けるのだろうか。
シドニーに戻ってから数週間後に彼の弟夫妻がやってきた。彼の弟夫妻は何故か彼のいるところに必ずべったりと張り付く様にやって来る。ぼくがシドニーにやって来て二年が経過していた。離婚裁判の結審の日、ぼく達は裁判所に出向いてその時を待っていた。決められた時間に行くとそこには既に離婚を申し立てた数人の女性達も来ていた。裁判官から次から次へと淡々と女性達に申し立てられた離婚要請の受理が言い渡され、彼女達はせいせいとした顔で書類を受け取ってその場を去って行く。ぼく達の番がやってきた。滞りなく裁判が進み、最後の段階になって彼女の弁護士が彼女からのたっての要望で電話で一言付け加えたい旨を切り出す。彼女は法廷に来る事を拒否し続けていて、彼女の弁護士が代理で電話で法廷に参加していた。何を言うのだろう、と待っていると、「日本人女性として離婚は死に値する恥、恥辱なのを知っていて欲しい。」と一言付け加えた。その場にいた人達も、ぼく達も言葉は悪いが思わず吹き出してしまった。その離婚調停の場には様々な国の女性達もいたから、その彼女の浮いた感覚は際立っていた。
ぼくは「日本人としての恥」よりも愛のない偽りの結婚を続けて経済的負担を夫に丸投げにする方がよほど恥ずかしい事と思うし、今の日本で離婚は「恥の烙印」という感覚は既に希薄だと思う。マンハッタンという最もリベラルで人のことなど気にする暇などない忙しい個人主義の街に住んでいて、こういう時だけ、「日本の伝統的価値」とかを持ち出して自分を美化するのは滑稽だと感じる。
3年近くかかった離婚調停もこれでやっと終わった。
彼もギブスが取れて、怪我をする前の普通の速度で歩ける所まで回復していた。何か次の段階に来ているのでは、と感じていたある日、彼からシンガポールに移る辞令が出た事を知らされる。シドニーでやる事はやった、生き切ったという感慨があったから後ろ髪を引かれる思いはなかった。だけれども、毎日、毎日を一人戦って来たこの街への愛着は絶ち難いものがあった。波止場のかわいいコーヒーショップ、病院までの見慣れた街の風景、冬のながく続く嵐と窓から見える群青色の波、ユニークで愛しいオーストラリアの自然達、毎日遊びに来てくれた色鮮やかな鳥達、そしていつもぼくを見守っていてくれた南十字星。これらにサヨナラを言う時が来たのだ。
ぼくのシドニー最後の日の早朝、ぼくはまたまた独りぼっちだった。彼は出張に出かけていて家にはいない。ぼくはパンパンに膨らんだ重いスーツケース二個を引きずって玄関へ運んだ。一人でシドニーにたどり着いて、去る日もまた一人。
キッチンで丁寧にいれたコーヒーを飲んで、マグカップを洗い元の場所に戻し窓越しにバルコニーを見た。するとぼくの見慣れた友達が来ていた。一匹の虹色インコがぼくをバルコニーの上で待っていた。
「おはよう。もう会えないね。来てくれてありがとう。」
ジャムを手の平に乗せてクチバシの前に差し出すと、今は警戒感をすっかり解いて手の平に乗るまでになっていたインコがジャムを食べる事なくじっとぼくの手のひらで首をかしげながらぼくを見上げている。
階下の友人に手紙を玄関口に残し、タクシーで空港へ向かった。もう二度と来る事はないだろうオーストラリア。ぼくはあの日以来、一度もオーストラリアを訪れていない。思い出が、経験が強過ぎて、まだぼくにとっては完全に過去になっていないからだろう。
その時までにはぼくは両親達と和解していた。使い古された言葉だけど、時のみが解決する、時間が唯一の人の心の傷を癒すもの、ということを実感した。そしてぼくと彼が責任を持って日々を、毎日を生きて実績を一つ一つ重ねて行って、一ヶ月、半年、一年と言葉ではなく行動の積み重ねを通じてぼく達の決心を見せて行った時、その時初めて理解が、歩み寄りが、受容がおこなわれるのだと思った。今では彼はぼくの母にとって一番のお気に入りの息子だ。ぼくが彼と東京の実家に戻る度、母は小躍りする様に彼に愛のシャワーを浴びせる。ぼくがいない、彼だけのぼくの実家訪問の時でも大喜びで彼に手料理を振る舞い、喜んでいる。今、ぼくの両親が一番のぼく達のチアリーダーだ。時間、というのは本当に魔法の様なものだと思う。ぼくは彼との家庭をつくったのだ。そしてぼくの両親もぼく達を家族のメンバーとして温かく受け入れて見守ってくれている。
ぼくのシドニーの家の一階に住んでいた友人の部屋から聞こえていたEva Cassidy の曲「Time Is a Healer」の歌詞を思い出さずにはいられない。
「もし時間が癒しならば
壊れてバラバラになった心達はいつの日か
元あった場所に再び戻っていくでしょう
なぜならば
愛が心の傷を癒すから」
ぼくのソウルメイトの彼女も愛の一部だった。だからぼくも彼女の心の傷を癒すための愛の一部を彼女に残していった。今、彼女はあの眺めの良い部屋を後にしてMauritius というマダカスカルの東に位置する島に家を求め、シドニーとの間を行ったり来たりして経営コンサルタントとして忙しく世界をまたにかけている。そして彼女の娘さんがお母さんに託した思い、最後の言葉、「いつも笑顔で輝いていて」という彼女との約束を守るために。
ぼく達は間もなくしてシンガポールへ移った。
シンガポールはぼく達の関係を正式に認める国ではないので、家を借りる時に拒否されるかもしれない、と不動産業者に言われていたけれどもそういうこともなく、ぼく達はショップハウスと言われる3階建ての一軒家をチャイナタウン近くに見つけて移り住んだ。シンガポールは全てが予め計画された通りに作られて行く街なので住む場所くらいはせめて息のつまりそうな高層マンションではなく、もっと人の生活の臭いのする、地上に近いオーガニックな生活をしよう、と思った。中華街が近いので、シンガポールという多民族が調和しながら生活している国でも比較的中華色の強い地区だった。
シンガポールは赤道直下の国。とても小さい国、というよりも小さな都市国家。地下鉄に乗ればインドネシア語、マレー語、インド語、中国語と英語がアナウンスで流れ、マンハッタンでさへこんなにたくさんの民族が混じり合って生活しているのを見た事がない。シンガポールへついて最も驚いたのが、空調の効いた部屋から外へ出ると掛けていた眼鏡があっという間に曇ってしまうほどの湿気の高さと、毛穴という毛穴から一気に汗が滲み出るほどの堪え難い暑さだった。そして空から穴が開いて地上へ水の柱が流れ落ちてくる様な、そんなダイナミックなスコール。雷鳴と稲妻のピンポンゲーム。雷鳴の後地面が引き裂かれたかの様に地面を揺らす、稲妻が地上に叩き付けられた時に発する足下からの振動音。地球は生きている、と感じる瞬間でもあった。そして街はというと、まるでコンピューターでプログラミングされたかの様に規則正しくスケジュール通りに動き、混沌さからほど遠く、まるで近未来映画の中に住んでいる様な錯覚にさへ陥る。シンガポールから日本へ帰る都度、何かデジタルの世界からアナログの世界に戻って来た様なほっとする感じがある。
ぼく達の住む通りは、全てがショップハウスと言われる伝統的な古い家が立ち並ぶ通りだった。車の通りはあるものの、何か少しローカルな、緩やかな時間の流れる空間で、そこかしこには水を溜めた壷の中にグッピーが泳ぎ、ペラニカンの鮮やかな色模様の植木鉢にはちょっとした植物が植えられてそこに住む猫達に格好の休憩場を提供していた。
ぼく達がバス停に向かう途中のベンチでいつも寝ている猫がいた。ぼくは何気なくその猫の写真を撮ったり、寝ているのを起こさない様にそっと撫でてみたりしていた。
ある日、彼はいつもの通り長い出張に出ていて、だだっ広い家の中、僕一人だった。家の中で、ふと玄関を見るとドアマットが目に入った。そして、「どうしてドアマットなのに家の中にあるのだろうか」と思い、ある晩、それを玄関先の外へ出しておいた。朝、目を覚まして玄関を出てみると足下にいつも見かける猫が気持ち良さそうに寝ていた。
その日からその猫はそのマットの上でお昼寝するのが日課の様になって、ぼくはその猫を家の中に招き入れてみた、初めはおそるおそると部屋の中を警戒しながら入って来たその猫も、20メートルほど入った台所あたりに来ると大分リラックスしてきた。そして台所のバケツに汲み置きしてあった水を見つけるや否や、二本脚で立ち上がって貪る様にいきなり水を飲みだした。5分ほど、一心不乱になって水を舐めていた。その姿を見て何かがぼくの心の中で起った。
一日目、二日目、三日目と経ち、ある朝、ぼくは思いっきり寝坊してお昼近くになってやっとベットのある3階から台所のある1階へ眠気眼をこすりながら降りて来ると、待ちきれなくなってしびれを切らしたその猫が窓から部屋に飛び込んで来る瞬間だった。お互いにびっくりして目が合って、驚いて窓から逃げようとするその猫。ぼくが「いいよいいよ、おいで。」と優しく手招きすると、すうーっと逆立てていた毛を元に戻して耳を低くしながら近寄って来る。
この時、この猫はぼくを信頼し、それ以来、全身全霊でぼくに信を置く様になってくれたのだと思う。その晩、彼に電話で、「猫を飼いたいのだけれども」と話しを切り出すと、二つ返事で「きみがそんなことを言うなんて珍しい。よほど気の合う猫なんだね。いいよ。」と快諾してくれた。この猫は彼にもすぐ心を許し、ぼく達の欠かせない家族の一員になった。その名もシンシン。Like Singing a Song in Singapore という願いを込めてシンシンと名付けた。
このシンシン、近所に長年住むメイドさん達の話しによると、元はオランダ人家族に飼われていたのだけれども、彼らが帰国した途端、この家族に道ばたに捨てられていきなり路上生活が始まったらしい。近所の人達はそれまで飼い猫で「キャスパー」と呼ばれていた猫が突然捨て猫になったのをかわいそうがり、皆で代わる代わるエサをあげていた。2年ほど続いた路上生活の後、ぼく達の家族に加わった。そんなトラウマになる様な経験を経て来たのにも関わらず、人を信頼する能力を失わず生来の気性の穏やかさと、落ちついた犬の様な忠実さを持った猫で、ぼく達はシンシンはまるで犬みたいだ、と思っている。
ぼく達は一度としてシンシンに威嚇されたり傷つけられたことがない。いつでもどこにいてもついて来て、ぼく達が見える所にいつでもいる。寝ていると胸の上に乗って来てぼく達を覗き込みながら寝てしまう。ご飯をぼく達が食べているとその横で食べ物に手を出す訳でもなくじっとぼく達が食事が終わるのを待っている。シャワーを浴びているとじっと外で待っている。ぼく達が外から帰って来ると必ず玄関まで出迎えてくれる。ぼく達は3人家族になった。
彼はシドニーで離婚はしたけれども財産分与の件については終わる気配が一向になく、彼女は終わらせる事を拒否するかの様に、引き延ばすための新しい要求を次から次へと出し続けていた。
彼女は彼が代々家族から受け継いできた数々の調度品、家具、銀食器や陶磁器などに異常に固執して、彼の家族の品々を自分の財産リストに入れたがっていた。ぼくには自分の家系のものでないものを何故そんなになってまで手にいれたいのか皆目見当もつかなかったけど、彼は少しでも早くに決着をつけたかったから彼女に彼の祖父からもらった絵画やイニシャル入りの銀食器などを譲らなければならなかった。彼は彼女の家族からもらった品は何もない。彼女は財産分与の書類にサインする前提として、シンガポールを訪れてぼく達の借り家の隅々までチェックしたい、と言って来たけれどもこれは絶対に飲めない条件だったので却下した。彼女の品々を4箱分の小さな段ボールへ入れて彼女の弁護士へ電話を入れると、彼女はシンガポールへ来て段ボールの中味を確認しないと書類にサインは出来ないという。以前、シドニーから彼女の住むアメリカへ彼女の荷物を送った時、彼女は受け取りを拒否して彼がアメリカに来て段ボールを開けて運ぶ手続きをアメリカでしてくれたら受け取っても良い、という要求をした経歴があった。
それから数日が経ち、彼が出張でシンガポールにいないある日、彼から電話があって彼女がシンガポールへ既に向かっていて数時間後にシンガポールに着く、と言う。急いでこちらも弁護士に連絡を取り、彼女の荷物を倉庫に預けてその住所を彼女の弁護士へ知らせ、ぼくは息をひそめてその時を待った。彼はシンガポールにいないけれどもぼくは家にいた。彼女はぼく達の住所を知らないけれども、様々なつてを辿っていつ、シドニーの病室で現れた時と同じ様にここの玄関先にやって来るか分からない。
彼は秘書に絶対に何があっても彼女に住所を知らせない様に、と言付けた。彼女は数時間後、彼のオフィス内にどうやってか滑り込んで、誰もいないはずの彼のオフィスの中にいるのを不審に思った警備員に発見された。彼女は数日の間シンガポールに滞在して、彼とぼくのシンガポールの住所を知るためにありとあらゆる方策をとったけれども結局、彼女がぼく達の住所を探し当てる事はなかった。
財産分与への決着がついて彼の荷物をニューヨーク郊外の家から運び出すため、ぼく達は再びアメリカへ飛んだ。彼のお母さんが心配して、彼女も彼のお母さんが側にいれば取り乱す事はないだろう、と言ってわざわざ来てくれて、ぼく達は家の近くの小さなホテルで合流した。雪の舞う、寒い日だった。
こんな大変な場面にわざわざ駆けつけてくれた彼のお母さんは流石だ、と思った。
いよいよ彼の荷物を運び出す当日の朝、彼は既に運送業者に手配を終えていて約束通り、運送業者の車は朝の9時に家の前で待機していた。しかし、なかなか彼女は現れない。1時間が経過して3時間、4時間が経った頃、彼女の友人から「雪のためそこまで運転していけない。まだマンハッタンにいる」と驚く様な内容を伝えて来る。彼女は予め全ての予定を知っていてその前日に来て待機することも出来たのに。そして彼のお母さんはもっと遠い所に住んでいて飛行機で3時間もかけて駆けつけて現場に来ているというのに。
待ちぼうけをくらった運送業者は苛立ちを募らせてもう帰ると言っている。家の鍵は彼女が彼が入れない様に新しい鍵に全て変えてあって彼女がいないと家にも入れない。ぼく達は途方に暮れてしまった。
彼の弁護士がホテルにやって来て事の次第を説明するのだけど、ぼく達はこういう事がないように彼を、プロフェッショナルとして雇ったのに、まるで役に立たない。ぼくは我慢の限界に来て、「こういう事が起らないためにあなたを雇ったのに、あなたは向こう側の要求ばかりを飲んで、こちら側の利益を代弁していない、」と言うと、その弁護士は”逆切れ”、とでもいうのだろうか。ぼくに対して「おまえこそ招かざる客なんだ。」と驚く様な暴言を吐く。彼のお母さんはぼく達を見て見ぬ振りで他人の振りをしているし、彼女の旦那さんは「きみはどうして事を荒らげたいんだ」とすっかり守りモードになっていてぼくのサイドに立ってくれる人間は誰もいない。その時、彼が寒そうに背中を丸めてホテルに戻って来て、「どうしたの」と聞いて来る。彼の姿を見てほっとするけど、あまりの情けなさにいたたまれなくなる。ぼくは一人、その小さな個人経営のホテルをそっと抜け出て雪の舞う中、空を見上げながら悔しくてこみ上げて来る涙を押さえられない。すると後ろに人の気配がして、一部始終を見聞きしていたそのホテルのオーナーが「頑張れよ。もう一息なんだから」と肩にそっと手を当てて励ましてくれた。
数時間後に彼女が車で現れてやっと荷物の運び出し作業が始まる頃には、陽は既に傾き始めていて、結局、彼は全てを運び出す事ができなかった。彼のお母さんが、誰か第三者が身近にいた方が彼女も人目を気にして取り乱さずに済むのではないか、という配慮から彼に付き添って現場にいたのだけれども、彼女の友人がひっきりなしに彼のお母さんに「あなたの息子はくず。」と嫌がらせを言い続け、彼のお母さんは一連のストレスからその晩、全く声が出なくなってしまった。その上に、彼のお母さんが彼の所有物と思って段ボールに何気なく入れた灰皿が実は彼女の所有物で彼女がその灰皿をめぐって大騒ぎをしだしたショックも加わって、彼のお母さんの心労もピークに達したのだと思う。とても後味の悪い幕切れだった。
その晩、ぼく達は近くのレストランでお互いの労をねぎらいながらビールで乾杯した。皆を濁流に飲み込みながら一時は皆が互いを見失いかけた事もあった一連の離婚劇だった。それまで降り続けていた雪は止んで、降り積もった雪は辺りを白く照らしてその青白い夜の雪の中をぼく達はゆっくりと暖かいホテルの部屋へと戻って行った。
これで全てが終わったのだ。東京の丸の内ビルヂングで出会ってから8年目、既に2011年になっていた。〜