いつになっても「師」の存在は大きい。学生時代にお世話になった恩師は、ふとした瞬間に、また会いたいなと思い出す。彼らからもらった言葉はいまも自分のなかに根付いてて、目の前のことに向けてのエネルギーになっていたりする。学校に限らず、学校外でも師といえる人はいたし、もちろん社会人になってからも新しい師に出会ってきた。
バーテンダーと職業についてから、この道における師匠をみつけた。もうずっと会えてはいないのだけど、ぼくにとって“特別とも失敗の味”ともいえるジントニックを飲むと、ふと、その存在を思い出す。すると、カクテルを学びはじめたときの光景がぱぁっと甦ってきて、どんな姿で師匠がカウンターに立っていたか、と記憶のなかを辿りはじめる。
プロフェッショナルってこういうことだよな、という姿が浮かんでくるのだけど、あらためて、バーテンダーは「サービスマン」であると同時に「職人」である、ということを思い知らされる。これはバーテンダーにかぎった話でなく、プロフェッショナルと言われる人はみんな、その両方を兼ね備えた存在なんだろうな、とぼくは勝手に想像を巡らせている。
なにをしたら相手が喜んでくれるのか、楽しんでくれるのかというホスピタリティ(日本においては「おもてなし」のほうがしっくりくる)を持って、お店にきてくれたお客さんとコミュニケーションをはかれる人がサービスマン、あるいはウーマン。というのと、お酒を注ぐとき流量をコントロールしたり、シャイカーを振ってほどよく冷やして混ぜ合わせる、所作がしなやか、というのは職人(としての技術。)
前置きは長くなったけど、特に話したいのは「職人」について。職人気質なバーテンダーはものすごく多い。こういう職人の世界には暗黙のルールが漂っていて、それは「見て盗め」というもの。教えられるのを待つんじゃなくて(というか教えないよ、のスタンスの人すらいる)、やっている姿を見て、まねてみろ、ということだ。
古風というか、“人をそだてる”ことにおいては少し乱暴ともみてとれるこの手法。ただ自然といえば自然なことだ。赤ちゃんは、親の言葉や動作をまねて、多くのことをまなび、成長してきたのだから。スポーツだって、まずは動きをまねることから入る。それなりにロジックはあるのだろう(ただ……というのは最後に言うことにする。)
「まねる」ことは、おそらくだけど、「観察」「模倣」「反復」のサイクルを繰り返して、なんらかの技術を体になじませることだと思う。反復が必要ない人が俗にいう“センスのある人”なのかもしれない。
「まねる」は「まなぶ」という言葉と語源が同じだそうだ。「まねぶ」からきているそうで、要は、「まねる」と「まなぶ」は密接な関係にあるわけだ。座学だけで知識を身に付けて学んだよ、という頭でっかちさは、ほとほと注意しなくちゃいけないなぁ、とぼくはカウンターの中でまなんだ。というか、そういう“まなび方”を体に叩き込まれた。まねぶことを、まなんだ(ややこしいけど。)
がっつくというか、こっちで勝手にやるよ、という姿勢は、気付けば他の事に取り組むときに活きていた。もうひとつの、“ものを書く”しごとはだれも周りに教えてくれる人がいなくて、ほぼ独学だった。「こういう、もの書きになりたい」という勝手ながらの師匠をみつけて、後はまねするだけ、彼らの頭のなかをなぞることが大事だ、というバーでのまねぶ手法が役立った。これはありがたいことだ。
ただ(さっき引き延ばしたことだけど)、この「まねぶ」にはちょっと問題もあって、そのやり方が肌に合わない人もいて、業界からフェードアウトしてしまう人がいる。諸先輩がたも、見て盗めの一点張りで教える技術がない人が、ほんとにほんとに多い。教える仕組みにも、うとい。だから、後継者をつくるという意味でも、“再現性”あるハウツーを体系化できるといいのかなぁと。前にも触れたけど「変わらないために変わり続ける」のだから。これは正直どうにかしていきたい。ぼくの勝手な問題意識でしかないのだけど。
うまくなりたいものがあるなら、とにかく、まずは「まねぶこと」でちょっとずつ技を身に付けていく。そうやって、自分のできることを増やしていけるのはいいよな、と思う。だれに言われなくても、教えてくれる人がいなかったとしても。子どものころ、ほんとよく仮面ライダーとか戦隊もののまねっこをしたのだけど、あの延長線上にあることなのかもな。「観察」というところで、じーーーっと見過ぎないようにだけ注意しようっと。怪しまれちゃうから。