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2F/当番ノート

「人魚が星見た」第四話・新逗子

当番ノート 第21期

▼新逗子

けっこう毎日、君の夢を見る。起きてNは言った。今朝の彼の夢で、私は車を運転していたらしかった。ほかにはどんな夢を見るの、と訊ねると、遠いところにいる君に電話で相談に乗ってもらったりとか、と言われた。私もたまにあなたの夢を見るけど、いつもほかに恋人がいる役で登場するから安心させてもらったことはないよ。そう告げると、冷たい女だなあ、と言うので、ふとんをたたみながら、どっちが、と応じておいた。

金沢八景の駅では、ペットについて「全身が入るケースで、顔が出ていなければお持ち込みは無料です」と案内された。人魚は水筒に全身おさまっているので問題ない。改札をくぐり、上りと下りのどちらのホームに行くか迷っていると、南に行こうよ、とNが言うので、下り電車に乗ることにした。

停まっていた電車に、行き先も見ないまま乗りこんだ。走り出すと、車体は大きく右に進路をきり、徐々に緑の森の中へ分けいってゆく。あれ、と思いながら扉の上にかかげられている路線図を見て、これは新逗子に向かう支線なのだと気がついた。南じゃないみたいだけど、いい? 振りかえるとNはすでに座席に腰をかけ、窓をあけて風を受けていた。

3つめの駅がもう終点だった。なんとなく、海へ向かうつもりで改札を出る。駅前のバス停を抜けたところにドーナツ屋があるのを、Nはめざとく見つけて入った。白砂糖つきのものと、シナモンシュガー、メープルドーナツを選んでNはすばやく買った。ホットケーキにしろ、ドーナツにしろ、粉と牛乳を混ぜてふくらませたお菓子が好きなのだ。

店を出て、住宅街の中の細い道を縫うように進んだ。途中見つけた「海まで直進。300M」という看板を信じて、せっせと歩いた。目につく花の名前をNが訊ねてくるので、答える。くちなし、あじさい、ざくろ、ゼラニウム。Nは時折り、あれはユリ? つぼみが、人魚の尾に似ているね、などと口をはさむ。びわの実、ルピナス、タイサンボク。その次に、あれは? とNが指さした薄紫の花は、見覚えがあったが名前が浮かばなかった。

道の向こうから、男子中学生の群れがいくつもやってくる。通学路なのだろう。「今日のカワバタの物理まじで終わったわー、人生やり直したいわー」などと言い合う声が聴こえる。子どもの領域には収まらないが、かといって大人とみなすにも不安が残る。かわいくもなくかっこよくもない、宙ぶらりんの彼らがやり直したい「人生」とやらは、ひどく寸づまりなものに思えた。カワバタの物理にもめげずに生きのびれば、どこぞの女と人魚を連れて、海を見にゆく未来もあるかもしれないぞ。少年たちに語りかけながら歩いていると、あんなだった、おれも、とNが言った。少年たちをじっと眺めているNの横顔に、中学時代の面影を読みとろうとしたけれど、うまくいかなかった。

ふいに、水筒の中でがたがたと人魚があばれ始めた。顔をあげると前方に、あの下に海があると一目でわかる、ひらけた空が見えた。海開きをむかえていない時期で、砂浜で遊ぶ人はまばらだ。波間をすべるヨットの数も少ない。海の家は、まだ建設中だった。

砂浜で、かばんからドーナツを出した。紙にくるまれた白砂糖つきのドーナツをひとくちかじって、おいしい、と声に出そうとした時、手元でばさっと音がした。なにか大きなものがすり抜けた感触があり、一瞬遅れて手元を見ると、ドーナツが、ない。まさかと思って頭上を見上げると、とんびが何羽も旋回している。やつらが急降下し、翼で私を打ってドーナツを奪ったのだと気がつくまで、それから数秒かかった。Nもすっかり面くらい、笑いだそうとした表情の半分くらいのところでかたまっていた。ドーナツ、取られちゃった。やっとそれだけ言って、次に水筒の中の人魚の無事をたしかめた。Nがシナモンドーナツを半分わけてくれたので、いっぺんにほおばり、急いで飲みこんだ。私は海岸あそびの素人だったと、反省した。

波打ち際に近づき、おそるおそる、人魚を水筒から出して抱きかかえた。頭上を警戒したが、とんびは見向きもせず、ゆうゆうと旋回を続けている。人魚は大きな海におどろいたのか、おとなしく私に抱かれていた。海岸に連れてきたのは、初めてだった。しばらく外に出していたが、乾燥してしまうと思って水筒に戻した。

手で砂浜を掘りかえして遊んでいると、水筒貸して、と言われた。誰かが置き忘れた砂遊び用のバケツにNは人魚を移しかえ、ちょっと散歩してくる、と言って私に背を向け、歩きはじめた。引きとめる間もなかった。Nは大またで砂を踏みしめ、ずんずん遠ざかってゆく。ああ、人魚が連れていかれてしまう、と思ったが、体が動かなかった。それとも、Nと人魚がふたりで私を置いていくのだろうか。リードにつながれた、黒くて大きな犬が私の目の前を横ぎっていった。犬に気を取られた瞬間、Nの後ろすがたを見失った。

気付くとあおむけに寝ていた。背中がじっとり汗ばんでいる。いつの間にか戻ってきたNが、私の横に腰をおろしている。
置いていかれるのかと、思ったの。
あおむけのまま言った。Nは私の頬にふれた。
きみはいつも胸の中で物語をつくりあげるね。
そんなこと、あるかしら。
そういう女からはたぶん、人魚は離れていかないだろうね。
Nは私の耳元でそう言って立ち上がり、行こう、と言って手を差しだした。私は黙って、その手を取った。背中の砂をはらって、海岸をあとにした。

来た道をたどって駅まで帰る途中、唐突に思い出した。アガパンサス。Nが振り返る。さっきの、あの花の名前。指さすと風に薄紫の花がはらりと揺れ、細い葉が光った。私がいつかいなくなっても、花の名前も知らない女に乗りかえるのはやめてね。言うと、すごい悪口だなあ、とNは感心して「花の名前を知らない女は、やめておく」と従順に言った。その直後に、ピンクの花をつけた庭木を指差して、ねえあれは何、と訊くので「キョウチクトウ。毒があります」と教えた。

駅前に戻って、もう一度ドーナツを買った。海でとんびに取られちゃって、とこわごわ打ち明けると、売り子の女性は「ああ、とんび。上手に取るでしょう。私もね、この前パンを取られちゃったんですよねえ」と笑ってくれた。

新逗子2

落 雅季子

落 雅季子

1983年東京生まれ

劇評・インタビュー・編集
遊歩型ツアーパフォーマンス『演劇クエスト』ドラマトゥルク

本当のこと84%、虚構16%の散文日記が趣味

Reviewed by
淺野 彩香

「花の名前も知らない女に乗りかえるのはやめてね。」
と、Nに「私」は言う。

読了後、あわてて自分の知っている花を数えてみた。
…全然知らない。

女性なら、「私」のように少女のような可憐さをもち、
なおかつ風雨に晒されても咲く花のような凛とした
美しさに憧れ、そうなりたいと願うものではないだろうか。

少なくとも私は本作を読んで、「私」の女性性に魅了されている。
今後、「私」と「N」がどのような旅路をたどるのか。

今回の「新逗子」編は、先の展開や感性が、
散りばめられた宝石箱のようだった。

次は箱から何が出て来るのか、見物である。

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