▼金沢八景
人魚に海の生きものを見せるのはどうか、とある日Nが言った。シーサイドラインという電車があって、それに乗ると海を見ながら水族館まで行ける、と言ってNは私を誘った。地図で調べるととても遠いようなので、泊まるつもりで準備をした。遠出する時、人魚はいつも、大きめの水筒に入れて持ちあるくことにしているので手ですくって移した。琺瑯(ほうろう)のたらいは、タオルでくるんでリュックに押しこんだ。
海辺にだいぶ近づいてから、人魚のぶんの切符を買っていないことに気がついて、シーサイドラインの乗り場で、ペット料金はいくらか駅員に訊ねた。乗務員は「小動物でしたら無料でお持ち込みいただいて大丈夫です」と言った。では人魚は大丈夫である、と判断して、車両に乗りこんだ。無人運転の、モノレールだった。座席についてから、水筒の中を覗いてみた。真っ暗な筒の中で、ほのかな青い光が濃くなったり薄くなったりしている。人魚は静かにねむっていた。
モノレールは臨海の工場地帯を抜け、左手に海を見ながら進んだ。やがて、巨大な水族館があらわれた。ガラスのピラミッドのような巨大な屋根が見える。海に突き出たジェットコースターも。あそこに集められている、エイやサメやマンボウや、アシカやイルカのことをいっぺんに想像して怖くなった。この子には海、ひろすぎるんじゃないかしら。おそるおそる私が言うと、ひろいのが海でしょう、ずっとコップの中で暮らしていたから無理はないけれど、もっと大きなものを見せていかなかったら人魚は死ぬよ、とNは冷ややかに言い、水族館のある島の駅で降りる素振りを見せた。いやだ、降りたくない。あんな水槽ばかりの場所を海だなんて言って見せるのは、いや。私は抵抗した。それを見て、じゃあこのまま行こう、君がよろこぶかと思ったんだけど、ごめん、とNは謝った。謝らないで、と私は落ちつきを取り戻そうとつとめ、水筒をにぎりしめた。そのまま、シーサイドラインは終点の金沢八景についた。人魚が死ぬ話など彼がしなければ、水族館に行ってもよかった。思いながら、Nに付いてモノレールを降りた。
かばんに、小さい手帳を一冊しのばせて持ってきていた。私のノートではない。Nの部屋の本棚で見つけたものである。ノートに残されたメモは断片的で不明瞭だ。「一日寝ている。ときどき泳ぐ」「指を噛む。しつけが必要?」それは死んだ人魚の、飼育日記だった。日付が書かれている時もある。よく見ると二種類の筆跡が混在していて、それがNと、人魚を連れてきた女のものだということはかんたんにわかった。「チョコレート、野菜くず」なんていう記述もあって、これは人魚が食べたものかな、と思ったりもした。読みながら、よく知ったはずのNが自分の肌から遠ざかるのを感じた。なじんだ指もくちびるも髪も、浮きあがって知らないところへ行ってしまったみたいだった。そうした気持ちの乖離が、ノートを見つけてからときどき起きるようになっていた。
ふたりで海沿いを歩いていくと、古民家のようなたたずまいの旅館を見つけた。せまい庭には、低い松が何本か植わっている。おそらく、このあたりの釣り客の常宿であろう。Nは門をくぐるとすたすた石畳を歩いてゆき、引き戸をがらりと開けた。薄暗い奥の部屋から、陰気そうな女主人が出てきた。肩に猫が乗っていたので、目をうたがった。一室だけ空きがあったので、今夜はそこに泊まることにした。「釣りのね、朝早いお客さまが多うございますから、玄関は夜10時半で閉めさせていただいておりますので」女主人は念を押してから、下がっていった。女主人の肩に乗った猫はじっと、私が手に持っている水筒を見ていた。
誰もいなくなると、Nはてきぱきと荷物をほどいて、人魚をたらいに放してやった。どうして私の人魚をこんなに飼いならしていくのだろう。こうやって、かつて別の人魚も。また考えはじめると、いとわしさが募って、指先までみなぎった。気を抜くと、知らない女の目でNを見てしまう。はじめて人魚を連れてきた、今はもういない女。見つめかえすNの視線は、時間をこえて、私ではない女を見ている。気持ちわるい、と思いながらも抱きあって、視線をかさね、たたみの上で交わった。そのあいだ、彼の髪を引きぬいたり、肩口の肉を噛みちぎったり、背中に深々と爪をめりこませたりしないように必死にこらえた。私が奥歯を噛みしめ、泣きだしそうになって耐えているその表情をNは、いい、と言って褒めた。その目で私を見ないで。思いながら、ますます奥歯を強く噛みしめた。
人魚も連れて旅館を出て、湾の方へ散歩した。湾には多くの漁船がつながれていて、ゆらゆら揺れている。知らない町で日が落ちていくのは心細くてさびしい。見回したが、山にさえぎられて夕陽は見えなかった。空は、薄墨を溶かしたように色もなく暮れていく。空がどんどん暗くなるのって怖い、どこかに帰りたくなる。言うとNは、どこかってどこ? とそっけない返事をした。船着き場は吹きだまりのようになっていて、ごみが打ち寄せられている。海、きたないよ。私が言うと、ひろくてきたないのが海だよ、とNは答えた。水筒のふたをあけて、人魚に海を見せた。人魚は首を出したが、鼻からフン、と息を吐いてすぐに引っこんでしまった。
食事をする場所を求めて、駅前に行った。古いたたずまいのコーヒーショップを見つけ、中に入って人心地ついた。店の中は存外にひろく、椅子や照明はどっしりしたアンティーク調でまとめられている。ふたりでメニューを見て、生姜焼きとハンバーグに決め、それぞれライスをつけて頼んだ。ひとつ隣のテーブルでは、タロットカードをひろげて占いをしている女がいた。赤い帽子をかぶっていて目元が見えないが、白い首すじやカードをめくる指先を見ていると、だいぶ若いようである。女はずいぶん長い時間をかけて、カードを読みといていた。女が時折ひとりごとを言っているのを聞きながら、私たちは運ばれてきたものを食べた。閉店が近づいて、客がひとり減り、ふたり減りして店内が静かになっても、食後のコーヒーが来ないので訊いてみた。若い娘の店員が「あっ、もうすぐです」と言ったので、忘れてたな、と思って私は何も言わなかった。その静かな空白に、占いの女が「南ね。南へ向かうと、きっといいわね」と言ったのが、へんに響いて聞こえた。