▼馬堀海岸
ひとりになってからというもの、ねむれない。夢を見て、疲れ果てて起きてもまだ二十分しか経っていないこともざらで、昼間も夜もそれは変わらない。目がさめて深夜二時過ぎに家の中をうろつくと、今度は人魚が起きてしまう。どうしようもないので、朝の暗いうちから浴槽に水をはり、人魚を泳がせる。疲れると人魚はそのうちねむる。私も、人魚のたらいの横でつかのま船を漕ぐ。しばらくして目をあけては、たらいの青く塗られたふちをなぞって少し泣く。
午睡していたらしかった。時計を見て、一時間と少しの時間が、私の一日から抜けおちたのがわかった。死んだように寝ていたのではなく、本当に死んでいたのかもしれなかった。鏡で見た寝起きの顔は、誰だか分からないほど青白かった。人魚がきいきい鳴いてはNを探すので、このごろ家を出る時は連れて歩く。横須賀の町には何度も行った。枝分かれした電車の路線図にもずいぶん馴れた。今日も水筒に人魚を入れて、半島の南へ向かった。
やはり海辺へ、と思いさだめ、横須賀中央から各駅停車に乗りかえて「海岸」と名のつく駅を選んで降りた。ホームに雨が吹きこみ、空気が早くも秋めいている。駅を出ると背中側が山なので、それで海の方角を知る。バス通りには大きな花屋があって、夏野菜やハーブにまじって朝顔の鉢がたくさん並んでいる。見ているうちにほしくなり、つぼみのたくさんついているものをひとつ買った。紐でくくってもらい、さげて歩く。今朝の花はもう褪せているけれど、明日になればまた咲くだろう。
広い国道に出た。一段高くなっている海沿いの遊歩道にのぼる。振りかえると遠くに、横浜や横須賀の町が雨にけぶってうっすらと見える。レインコートをかぶった二人組みの釣り人が、テトラポットの切れめに糸を投げている。ひとりの釣り人がもうひとりの方に寄ってゆき、指南を乞うているようだ。人通りがほとんどないので、水筒をあけた。人魚はすかさず首を出して海の近くに行きたがる。だめだめ、こんなところで泳いだら釣り人にさらわれてしまう。
雨はごく弱く、しかし無視できないほどには降っていて、服の袖をしめらせる。遊歩道を歩きつづけ、駅からどれくらい離れたかもわからなくなった頃、バス停があらわれた。やってきたバスが、私を試すように扉をあける。わずかに逡巡したが、地獄まで連れてゆかれるわけではないし、どうせひとりの道ゆきである。乗った。小さな漁港を過ぎ、神社のわきを抜ける。客の乗り降りはふしぎなほど少なかった。ホテルや美術館前といった場所も素通りして、私はひとりで、終点の岬の停留所に降りたった。
バス停のそばにレストハウスがあったが、営業はしておらず、無人だった。すぐそこにごく小さな砂浜、そして荒涼たる磯がひろがっている。悪いものが流れつくのは岬のこのあたりか、と急にお馬流しのことを思い出した。見まわすと「灯台までの近道」という看板が出ている。いっそ岬の突端まで行ってしまえという気を起こして歩きだす。少し心ぼそいので、傘を持つ手の逆に人魚を抱いた。重い朝顔の鉢は、レストハウスの扉の前に置いてゆくことにした。
崖づたいに、石畳を歩く。すぐそばで波のくだける音がする。人の影はどこにもない。でも、道の先にNがいるかもしれないと思えば、この半島のどこへでも行けてしまいそうなのだった。
もうあなたの顔、忘れちゃうわよ。
Nに話しかけながら歩いた。
南の町にくだって、あなた、誰を探して会ってたの。
君はそんなこと知ってるかと思ってたよ、とNは言う。
知ってるわけ、ない。
話さなかったっけ。
話してない、一度も。いつも私、はぐらかされていた。
忘れっぽいんだ、おれ。
じゃあ今ごろ私のことも忘れているんでしょうね。
涙がふきこぼれるように湧いて、ぬれた地面に落ちた。死んだ人魚のことも、早く忘れなさいよ。
道の両わきにしげる照葉樹の葉に音がこもって反響し、波に巻かれるような心地がする。おそろしくなって、腕の中の生きものの感触をたしかめた。人魚は細い指で私の腕にすがりつき、ぶるぶるふるえている。波の音が耳の奥に入りこみ、目の奥、鼻の奥までもふさぎにかかる。ああ、これは、海に食われる。雨と波が私を引きずり、取り殺そうとしているのが、わかった。息がくるしい。もし人魚がいなかったら、海に呼ばれるまま崖から飛びこんでしまうだろう。この先に、本当に灯台なんてあるのだろうか。
今はじめて、私は人魚を頼りにし、抱きしめ、歩いていた。大丈夫。人魚が私のそばにいる。誰にも知られず飼ってきて、Nだけが可愛がってくれたこの人魚。互いの命が尽きるまで、離さず育てる覚悟が急にできた。たった今、そう決めた。海に帰さなければいけないなんて、あなたの思い込みよ、あの花火の夜も、この子がいればよかったね。そうすればあなたは、死んだ人魚を追って消えなくてもすんだかもしれない。
腕をひっかいて鳴く人魚のおかげで正気を保ち、バス停まで引き返すことができた。あんなに寂しく思えた無人のレストハウスにも、俗世界の人間くさい気配がただよっているように見える。扉の横のしおれた朝顔が、水に垂らしたインクのように光っていた。灯台なんてどこにもなかった。
水筒に入れてやると、人魚はすとんとねむった。私を待ちうけるかのように、バスが停まっていた。迷わず乗りこみ、いちばん後ろの座席に身を隠すようにして座った。運転手が発車のブザーを鳴らすと、女が駆けこんで乗ってきた。赤い帽子の若い女である。こんな女、岬にいただろうか。考えていたが、バスが走りだすと同時に、ねむれなかった夜のぶんの睡魔がどっと押しよせてきた。
あなたがどうしてるかと思って気になってたの。いつのまにか、赤い帽子の女が隣に座っている。あなた、取り返したいものが、あるわね。一語一語、言い聞かせるように女は言う。さては、魔女か。夢の中で私は、人魚の指のあとの残る両腕をぎゅっと体に回して、隣の女の顔をじっと見ていた。