アパートメントの起源はローマとも言われているが、現代の産業革命以降の労働者階級の都市部への人口集中に対応すべく発展した大量住宅供給のためのビルディングタイプの延長であろう。都市は田舎者の集まりである、はよく言う常套句であるが、要は根無し草、身寄り無しのような人々の集まりなのである。かくいう筆者も今は都内のマンション暮らしである。(マンションは本来「豪邸」という意味であるが、このカタカナ英語は明らかに売り手の小癪な思惑がすり込まれているし、実際豪邸でない。)
実のところ、日本仕込みの持ち家思考ということではないが、私自身はアパートメントをあまり好まない。都市が嫌いということではないが、なんとなく、自分が暮らす家は他の家にではなく、人間もあまり通らない、自然に囲まれていてほしい。とはいえ、とりあえず今は根無し草のこのアパートメントはなかなか良いのではないかとも考えもする。
我々の世代は今、自分たちの根をどこかにはろうと必死だ。とりあえず目の前の出来事と仕事に向かうだけの人間である。自分たちが一体どこから飛んできたのか、どのタンポポからやってきたのかがわからないまま、世界へ拡散することを希望している。そして私としたら、その後しばらく経ってから、たんぽぽの綿毛のようにどこかの地面に落っこちて、根が出ればいいのだろうとも。
そんな宙空を舞いながら、このアパートメントの入居者のページをまず眺めてみる。見たところ彼らは「裏窓」のようにそれぞれが部屋の中で好き勝手にやっているようだ。他の誰かが覗き込んでみては、遠くからつぶやくように小さな声で呼びかけているようである。「裏窓」ではそんな垣間見から妄想と不安が増幅して大きな事件が静かに生まれたが、このアパートメントではどうだろうか?
アパートには共用廊下があるのが常だ。世の中には、その狭い廊下に植木鉢などを並べている人も多い。日陰のジメッとした北側廊下ではそれらは苔生して、わずかに陰鬱な気配を漂わせる。下町の木賃アパートなどにおいては廊下は鉄骨のペンキ塗りで、だいたい手摺の隅っこは苔やキノコの如くペンキがところどころめくれ上がっている。昭和ノスタルジーみたいなものはよくわからないし知りもしないが(平成生まれなので)、そんな湿っぽい、小さくも荒廃する細部は現代の都市の中ではなかなかに価値がある。カビがわけばすぐさまカビ取りハイターをまき、壁が経年で汚れれば建て替えるか塗り替える。そしてそんな時代の気風はより加速するだろう。
少し前まで、建築現場でなにかとパソコンをいじる事態に直面していた。現場の砂と埃、そして木屑は明らかにパソコンの天敵である。いつ壊れるかとヒヤヒヤせざるを得ない。幸い壊れなかったので今こうして文章を打ちこめているが、こんな貧弱そうな道具に自分は支配されているのかと思うとうんざりする。自分も時代を受け入れざるを得ないのをほんの一瞬痛感する。電力の問題、水の問題、そして家の問題も同じことが言えるのではないか。
『森と文明』(ジョン・パーリン、安田喜憲・鶴見精二訳、晶文社)という本を遅々と読んでいる。古代メソポタミアの都市文明の発生から、フェニキア、ギリシャ・ローマ、そしてイギリス・アメリカと都市文明の盛衰と森の関係が極太な線で描かれている。原題は『A Forest Journey』であるらしいが、タイトルを『森と戦争』と変えても良いほどに本書は人間の欲望に満ち溢れている。そんな旅といえるような詩情はない。在るのはこの本の読者が得られるであろう読後の叙情だけではないか。人類の膨大な文明史が生態学的に言えばその何十倍もの生命の屍の上に在るのだ、の叙情の感覚である。この感覚が無かれば自分が今生きている意味といったものも現れ出てこないのではないかと直感している。
2015年6月3日
佐藤研吾