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◆前回までのあらすじ
バーの片隅でわたしは作中のわたしの架空の姉に説明する。地震があったことについて、どうして書くのか。書くしかないからか。書くしかなくたって怖かったのだということ。なにが怖かったのか。
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止まらなくなってわたしは作中のわたしと架空の姉に話し続ける。どんどんグラスを開けていく。『ロッキー・ホラー・ショー』『動くな、死ね、甦れ!』『ツィゴイネルワイゼン』『アイム・ソー・エキサイテッド!』『アルバート氏の人生』『ホーリー・マウンテン』『ナチュラル・ボーン・キラーズ』『バーディ』『茶の味』『ムード・インディゴ』『冷たい熱帯魚』『イングロリアス・バスターズ』『幕末太陽傳』『グランド・ブダペスト・ホテル』『タリウム少女の毒殺日記』『この愛のために撃て』、その他いろいろ。
「それで、いま何の話をしとんのだっけ」。わたしはだんだん頭がぼんやりしてきた。
「書かれとらんことはわからんよ。省略なんてするから」と作中のわたしは困った顔をする。
まだ書きようのないことばかりだし、時間だってもう多くはないんだ、仕方がない。
「でも、いま書かんと、もうすぐにでも変わってしまう」と架空の姉はにやにや笑いで言う。
そうだね、とわたしはグラスの『アデル、ブルーは熱い色』をちびちび飲みながら考える。甘い青色の液体。人生へのそれぞれちがう考えかたを持った女の子ふたりの恋愛映画だ。
わたしはドラマチックなものが好きだ、とおもう。そして適当にめぐまれた平凡な子どもだったわたしは、じぶんがドラマチックではないことにずっとがっかりしながら大人になった。
「じぶんがもし恋愛をすることがあるなら相手は女のひとだろうってさいしょにおもったときも、おなじような動揺があったとおもう」
「おなじような?」
「ほんとうはそうではないのに、よりドラマチックなほうに憧れて」
「じぶんをそうなんじゃないんかって疑って、それでよろこんでるっていうか」
「そう。そうやって『よりドラマチックなほう』としてとらえちゃってる物事がじぶんにあるっていう」
「そのサイアクな事態がまた動揺に追い討ちをかけて」
「そうだった。あのとき地震で揺れたのはわたしたちの愛媛ではなかったし」
「その後もわたしたちにとって半身を失うような経験は起こらなかった」
「いま喋っとんのはどっち?」と架空の姉の声はまた少し苛立っている。
「酔っ払ったかな。書き分けるのができんなってきた」とわたしは笑ってごまかす。
ちょうど『アデル』が空になったところだ。
「次はなにに?」とバーテンダーさんに訊かれ、
「ええと、アクト・オブ・キリングはできますか」
「あれは飲み物じゃあないですよ」とバーテンダーさんは顔をしかめる。その通りだ、とわたしもおもう。じっさいの《英雄》に当時の《活躍》を再現させるというかたちで作られた、大虐殺についてのドキュメンタリー。虐殺をおこなった《英雄》はそのむかし映画館でチケットを売るダフ屋をしていて、彼ら自身も映画を愛していた……。忘れられない映画ではあるけど、ほんとう、とても飲み物にはできない。
気づけばまわりの席にはもう誰も残っていない。わたしは時間を確認しようとして左手首を見るけれど、しまった、腕時計は実家に置き忘れてしまっているのだった。スマホの画面を覗くと電源切れだ。
「すみません、いま何時でしょうか」とバーテンダーさんに訊ねる。
「100年ほど経ちましたね」と答えがある。
「100年」
もうそんなに経っていたのか。わたしは振り返って背後の100年を見る。めまいがするようだった。
「たった100年ですが、すでに人類は滅びました。もう誰も残っていません。そろそろ店じまいです」とバーテンダーさんは説明してくれる。
「じゃあ最後に」とわたしは注文を言う。「幻姉を」
「げんし、ですか」とバーテンダーさんは応える。
「はい、はばたき機の。できますか」
「もちろん」
「よかった」
「どの幻姉でしょうか」
「どの?」
バーテンダーさんは、いくつかの監督名を挙げていく。そのなかにわたしの友人と同じ名前をきき、その名前を復唱する。
「それで間違いないですか」
「はい」
「この監督の作品がわたしも一番好きですね」とバーテンダーさんが微笑む。
「そうなんですか、嬉しい」
「白黒の映画なのに、思い出すとき、色がついているように思い出されるでしょう。そういう映画が好きなんですよ」
「わかります」
しばらくして、かわいらしいショートカクテルが運ばれてくる。炭酸がはじけて、逆さに降る雪みたいだ。
「ひとがほんとうに傷ついてしまったとき、それをどうにかするためにおなじような傷ついたひとが必要になるとする」とわたしは言うけれど、もう誰に喋っているのかわからない。
「それで?」と、暗闇にはちゃんと応える声がある。
「でも、傷ついてしまうことに傷を癒すって効能をつけるのは、傷ついてしまうこと、傷つけることの肯定のようで、いまは許せない」
「そうか」
「だからとりあえず、想像力とか、そういうものを信じるしかない」
「うん」
「だけど想像力に生まれたものが、現実の暴力を生むようなことだってある」
「そう」
「想像力で補おうとすること自体が暴力だってもおもう」
「そう」
「わたしの想像だって信じてることが、ほんとうは背後のなにかに操られて出てきたものかもしれないっても」
「そうだね」
「そうなんよ」
「それで」
「それでも」
グラスから吹き上がる雪たちはもうほとんど吹雪になっている。はるか天上に夜の駅のホームが見える。ホームに雪が降り積もる。雪じゃあないな、あれは光だ。光のなかで友だちが手を振っている。走り去る電車に向かって。わたしは電車の内側からぎこちなく手を振り返す。だんだん遠ざかり小さくなっていく友だちを車窓に見つめて、たとえば、わたしがあの子じゃないことの不思議さ、のことをおもう。これは死んでしまったひとのことを考えるときに飛んで来る感覚に似てる。そのときわたしたちはまだそんなこと影もかたちも知らないのだけど、気づいていないのだけど、または気づいてなんかいない振りをしているのだけど、わたしたちはみんなそれぞれの道をゆくし、わたしたちはどうにもこうにも永遠じゃないから、もう二度と、二度とあのときとおなじみんなでおなじように笑い合うことはないのだった。
「またね」とわたしは言った。
「またね」と豆粒ほどの大きさになった友だちが応えるのを見た。
たしかに見たのだった。
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死ぬ気持ち生きる気持ちが混じり合い僕らに雪を見させる長く
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年)
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