「好きなところをお互い10個あげてみよう」という提案に「恥ずかしいから内緒」と逃げたのは、6個目あたりで呂律が回らなくなる様が恐ろしかったからだ。
あなたは今道すがらコンビニに入り、なぜその大きさのそのお菓子を手に取り、なぜその値段を安いとも高いとも妥当とも許容し、なぜあの時間にそれを食べ、なぜその時全てを食べきらず、なぜ次の日は別のお菓子を買い足し、なぜ3日後にようやく全て食べきったのか。なぜ、あなたは今その色のその生地のそのブランドのスーツを身に纏い、なぜその満員電車に乗り、なぜ嫌いな人にも笑顔で挨拶をし、なぜ辛くても言われた作業をこなし、なぜ帰りたくても帰らず、なぜ明日もここに来なければならず、なぜあんなに行きたくなかったのに「来るな」と突然言われた日には悲しくなるのか。なぜ、居酒屋で最初にビールを注文し、なぜ今日はカフェラテではなくカフェオレを選び、なぜこの形で大きさの異なるおむすびを作り、なぜ玄関先にあの子にもらった豚の貯金箱を置いたのか。なぜあなたは彼の手を取り、なぜあの人の手を振り払い、なぜ泣きながら抱き、なぜ憎みながら離れず、なぜ憂鬱な気持ちでディナーの約束をしたのか。
さていよいよ胃の奥が気持ち悪くなってきたところではあるが、しかしそんな調子で毎日過ごしている気持ち悪い人間こと、私なのである。
「理由が無いから美しい」という時代が、私の中でとうの昔に終わってしまった。「なぜそうであるのか」という理由が明確に説明出来ないものは、粘着力の弱いシールのようにぽろぽろと私から剥がれ落ちていく。剥がれ落ちた事実は私の予想外の事態を招き、「なんでこうなった」と頭を抱える因果となって足元から襲ってくる。把握出来ていないカロリーは自分の理想と異なる体型を象り、把握出来ていない欲望はまるで他者に盗られたかのような貯金残高を示す。脳内面接官は事細かに「なぜ」を問い、圧迫面接は日常茶飯事である。「なぜ私は辛い想いをしてまでこれをやらねばならないのか」「はい、この作業の達成がなければ、本当に実現したいことに辿り着かないのであります」「ならばよし、続けなさい」そんな自問自答が繰り返される。思考が停止した瞬間、夕飯を終えたばかりのくせに手にはビスケットが握られていたりする。
「なぜ、今そのビスケットを」
「何となく、気持ちが満たされないからです」
何となく始まったものは何となく終わっていく。恋愛でもアルバイトでも趣味でも何でもそうだった。高校3年生の春、学食で焼き上がるメロンパンを買う列の真ん中で100円玉を投げ、表が出たから心理学科への進路を選び、そして20歳の冬に当たり前のように大学を辞めてしまった。その代わり、膨大な理由を抱えて美術系の専門学校に入った。その頃から「いつ何をしたか」という記憶が鮮明になっていった。大きな失敗の反動で、その後全ての行動の決定に理由が伴っていったからだ。
しかし、何となく始めたものの、案外大切な気持ちを抱くようになってはじめて理由を探し出すこともよくある。コンセプトも哲学も詰まっていなかった最初の作品が完成した後、その巨大な空っぽの容れものにどんどん理由を投げ入れていった。なぜ中心に描かれた女性はその人種なのか、なぜ地球から水しぶきが溢れ出て空間で宝石に変わり、紅葉を纏い、なぜ宇宙空間は闇ではなく光の中に在るのか。描いている時は「だって綺麗だから」以外何も考えていなかったくせして、同じ人間が後日「こういう意図だったんじゃないか」と作品のコンセプトを分析していく。当初、自分の無意識と向き合うその作業が、存外とても好きだった。どうしてそうしたのか。落としてきた事実を拾い集めて、糸で縫い合わせるように過去の自分と今の自分を結びつけていく。
きっと、そうやって「全部無駄じゃなかった」と思いたかったのだ。
発信してきた作品に日本人を描いてこなかったのは、東京生まれ東京育ちの私からより遠い存在に憧れていたからだ。輝くブロンドをどうにか当てはめたところで、結局私の顔には黒髪が落ち着くのは何とも切ない現実である。今後も私が私らしく纏うことの無い憧れの全てが「遠く」「幻想的」で、作品の発表の場ではそれに対する共感を欲していく。つまるところ、他者に提示したいのは日常から外れた「幻想的」という感覚である。そして、日本人の私が持つ要素も、地球の裏側では「幻想的」な存在だという当たり前の事実に打ちのめされている今日この頃である。その気付きは、私の作品展開において大きく舵を切ることになる。
遠い国から仕入れる素材に対し、もう怯える必要が無い。今までのコンセプトに即したまま、これからは内なるもので作品を構築することが出来る。そのことに、最初の渡英で気付くことが出来た。日本国外で広く作品を発信したい、今はそこに揺るぎない理由がある。
この絵の中のキャンバスにはきちんと絵を描くつもりだったし、その構図も決めて描き進めていた。しかしながら「キャンバスの中のキャンバス」を最後まで空白にしておいた結果、何を描いたら正解なのかがわからなくなってしまった。否、正解は私が描いた時点で決定される。しかしそれはまるで、設問文と式と解を全て書き連ねたホワイトボードを見つめる気持ちに似ていて、その退屈さにゾッとした。視る者が考える必要の無いその画面に「ふーん、なるほど」と思う以上に、何があるのだろう。構図美を考えた時、そこを真っ白のままにするということに計画性が無い分、やはり物足りなさというか、違和感がある。違和感があるのに、空白が正解のような気がする。果たして、これは失敗作なのか。それとも、理由を後からくべて燃え上がる傑作になり得るのだろうか。
こうやって自画像を描く時は、私のその時の心情が如実に反映される。私が描きたかった「私」というのは、目の前に広がる美しい景色をそのまま写し描く私なのか、目の前の現実など無視して自分にしか見えない世界を描く私なのか、空の色を青ではなく赤に染めることで、全てに対する天の邪鬼さを表現する私なのか。どれも正解で、全てに理由がある。何でも描ける気がする今だからこそ、空白を愛す姿は今の私が落ち着く境地なのだろう。
だからしばらくは、ここに何も描かないでおくことにする。
小林舞香