布団の中で目覚めて最初にfacebookとメールをチェックする習慣をいい加減やめないと、と思う。まだ自分のキッチンも見ていないうちから、他の人の人生が流れ込んでくる。でもそのメッセージたちが、フィードに現れる顔写真たちが、この部屋に収まらない自分の世界を形作っていることも確かで、なかなかそれを手放す覚悟が定まらない。
3年前のその朝は高校の同級生からメッセージが入っていた。またひとり、私たちの同級生が亡くなったことを知らせるメ—ルだった。
“橋から飛び降りたらしい”
それが土曜日だったことを覚えているのは、家の近くの公園が賑わっていたから。身支度をどう整えたかは覚えていないけれど、池にかかった小さな橋の上を駅へと歩いていたら、向かいから小さな男の子がトコトコと歩いてきた。膝上くらいの高さですれ違っていった背中を振り返ると、橋の向こうで新緑の木々が揺れていた。
電車の車窓に町が流れていくのを見ていたら、心臓がどくどく鳴りはじめて、内側の沢山の声を頭の中に運んできた。景色は次第にただの色の線になっていった。
いっときの時間と場所を共有した人が亡くなったときの心の置き場は、いまでもよくわからない。涙が止まらなくなる自分と、私が悲しみすぎるのはおこがましいのかもしれないという気持ちの間で揺れる。彼らの死がなければ、私は彼らのことを毎日想っていただろうか? 私より彼や彼女に近しかった人たちがいるのだ。目の前の日常にぽっかりと穴が空いてしまう人が。そう戒めるもうひとりの自分がいる。
私の目に映る土曜日はいつもと変わらない土曜日だった。世界の反対側でその人がいなくなってしまったことを私は文字で知っているけれど、目の前の光景はどうしょうもなく日常だった。
どうして? が、何十回も頭の中で繰り返して、冷たい水の感触が背中を這い上がってきてショートしそうになったとき、私は思わずガチャンと扉を締めてしまった。
“どこかで生きていると思いたい。この先も会えなかった可能性が高いんだから”
そんな残酷なことを思った。
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2年前の冬、仕事で彼の暮らした国の隣に行った。そこに住んでいた同級生と落ち合うことができた。少しの間、探り合いがあって、やがて話題はその人のことに移っていった。
「僕は会いに行こうと思えば行けたからね。 近くはないけれど遠くもなかった。実際に彼の方は会いに来てくれたことがある」
「うん」
「なぜ会いに行かなかったんだと思ったら…苦しかったよ」
「…うん」
「なんでそんなことをした、なんでこんなに苦しめるんだよって。僕は少し怒ってもいた」
「…私も」 たぶん少し怒っていた。
隣のテーブルでは二人のおじいさんがチェスを打っていた。じっくりと考えて、やがて駒がコンと動くのと同じくらいのテンポで、私たちは会話をしていた。彼の言葉も、私の言葉も、じっと自分の心に照らさないと、前に動かなかった。
ひとひとりが生きた記憶と死の痛みが、生きているひとひとりに刻まれて自然な形でそこに落ちつくまでに、一体どれくらいの時間がかかるんだろう。タトゥーにみたいに、太かったり細かったりする針が何度も傷を作って、沢山の色が注がれる必要があるんだろうか。かさぶたになったと思ったのに、また剥いてしまって、血が流れて、を繰り返している。
亡くなった人たちのことは、悼んで、隅々まで思い出して、時間をかけて彼らを自分の中に刻み付けたい。でも、これまでに自分で命を断ってしまった何人かの友人たちは、悼む時間の中で、私の中の何かを壊してきた。「壊さないで」とあのとき私は思った。生きている周りの人だって大して大事にできていないのに、壊れている場合じゃない。自分に見える世界、触れられる世界に集中しようとして、その自分を冷淡だと思った。怒りの矛先は私自身にある。それが辛くて、亡くなったその人に対して憤る。
悲しみ、怒り、怒りたくないという反射、諦め、諦めたくない気持ち、現実逃避、でもやっぱり押し寄せてくる悲しみ、怒り。その言葉に収まらない、どろどろとした気持ち。
「でもいい奴だった」 その言葉で我に返った。
長い夜の終わりに彼が言った。
「僕が好きな詩人がね、やはり友人を亡くしたときに、『たとえ全てを理解できなくても、その手を尊重したい』と書いていたんだ。僕はその言葉を見つけて以来、そう思えばいいのかな、って思っている。
コン、とまた駒が動く音がした。
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いま思い返してみれば、自分の手のことばかりを見ていたのかもしれない。残される自分の心の場所を探して。たとえ世界の反対側だったとしても、大親友じゃなかったとしても、何年会っていなかったとしても、これからも会わなかったとしても、彼が死んで私の世界は変わっている。
橋にかかったその手は震えなかったんだろうか。
力を込めたんだろうか。
何が力になったんだろうか。絶望? って何?
それとも、その先の世界に何かを感じ取ったんだろうか。
そのとき彼の体の中を駆け巡ったものが、どんなものだったかは分からないのだけれど、
もしいま自分が橋に手をかけて、飛び出せるかと言ったら否だ。私は死が怖い。
私と彼の手は違うのだ。彼の手が漕ぎ出した方向と、私の手が漕ぎ出した方向は違う。
そして誰しもが違う手を持っている。
生きたくても生きられなかったあの人がいるのに、なんであなたは死を選んだの?
私はあなたに生きていてほしかったのに、なんで死を選んだの?
相手に怒りや疑問を向けるのは、きっとお角違いだ。
「あなたはそっちに行ったんだね。私はこっちに行くからね」
彼が日常にいた人がそう思うことは難しいだろうけれど、昔の友達としては、もうそろそろ、それくらいで手を離してあげるのがいいのかもしれない。手を離してしまう自分を許してもいいのかもしれない。優しい気持ちになりたい。
「その手を尊重しようよ」
いま思えば、あのときの言葉は、私の頑なになった気持ちへのチェックメイトだった。
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橋の上に立って手を振る自分を想像してみる。
「また会う時には、話の続きをしようね。そっちの話も聞かせてね」
友人がひとり減った世界に残された私は、自分の心の置き場所を今でも探している。
でもそれと、彼が選んだものは、また別の話なんだ。
冷たい水のイメージが、私の知らない世界に向かって発つ鳥のイメージに変わる日が、いつか来る気がする。