先日、劇作家協会主催の「せりふを読んでみよう」というイベントに参加した。
イベントは、とある戯曲の一部を若手俳優が演じ、講師の劇作家が俳優たちにせりふの読み方を指導していくものであった。
言葉の「発語」、そして発せられた「言葉への反応」という一連のやりとりについて深く考えさせられたのと同時に、
言葉をこれほど大事に思ったことはあったであろうかと振り返るきっかけともなった。
これまでの人生で交わした会話は、たわいの無いものから重大な決断を含むものまで数えきれないが、
いずれの会話で交わされた言葉も私の中に残っているものは一つもなかった。
会話をしていた光景を映像として思い出すことはできるが、その会話の中で交わされた言葉はなぜか残っていない。
いつも力んでしまうからかもしれない。
会話を終えた途端、安堵の波が押し寄せ、交わされた言葉すべてを流し去ってしまっている気がする。
一方で、文章を読む際は国語の試験でもない限り力むことはなかった。
心にビビビとくるフレーズや言葉も出ないほどに綺麗な文体を目にし、
震えるほど感動することは何度もあった。
ただ、数日経てばサラサラとその言葉は自分の中から消え失せてしまっていた。
大学時代の2年間、私はスペイン語を学んでいた。
いつも試験では落第点からほんの少し上の点数しか取れていなかったが、
巻き舌や喉を鳴らして発音するこの言語がとても好きであった。
スペイン語でテキストを音読していると、口と喉が突如楽器に変身するような陽気な気分を感じていた。
そしてスペイン語を勉強する際、とりあえず形から入ろうと、スペイン語で歌われる音楽を聴き漁っていた時期があった。
その中でLos Crudosというバンドに出会い、特に”Las Madres Lloran”という40秒にも満たない曲に私は夢中になった。
Los Crudosは90年代にシカゴで結成されたヒスパニックによるバンドであった。
差別、偏見、腐敗、権力、歴史などマイノリティな出自である彼らだからこそ歌える歌を歌っていた。
スペイン語学習の背景用音楽を探していたはずだったが、彼らの曲は決して背景用で止まる代物ではなかった。
唯一手に入れた彼らのCDには和訳など付いていなかった。
かといって自分で訳すこともせず、歌っている内容も分からないまま、
リズムと一体になってスペイン語で叫ぶ声にただ魅了されていた。
その叫び声は心身を一瞬で着火させるにはもってこいだったので、ここぞという場面には常に聴いていた。
社会人になってからスペイン語とは縁がなくなっていた私は、果たしてどれほど覚えているだろうという好奇心から
いつも聴いてきたLos Crudosの”Las Madres Lloran”の歌詞を読んでみようと思い立った。
冒頭2秒間のはち切れんばかりの叫びは
“Las madres lloran porque pierden a los hijos!”
(madre=母、lloran=泣く、porque=なぜなら、pierden=失う、los=彼女たちの、hijos=子どもたち)
という詩であった。
それまで、ただただその熱量を感じ、自らの力に変えたいという理由で聴き続けてきた曲。
その歌われていた内容を知るや、私は戦慄した。
たった1フレーズの叫びは、心を掴んで離さなかった。
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Los Crudosに関しての参照記事
・Chicago Reader http://www.chicagoreader.com/chicago/los-crudos-martin-sorrondeguy-gentrification-pilsen-no-delusions/Content?oid=21538780
・Pitchfork http://pitchfork.com/thepitch/791-martin-sorrondeguy-on-los-crudos-reissues-and-latino-punk-history/
・DIY conspiracy http://diyconspiracy.net/limp-wrist/
Los Crudosの中心人物であるMartin Sorrondeguyは同性愛者であり、Los Crudos解散後は同性愛を前面に押し出したバンド
Limp Wristを結成し、Queercoreというシーンの立役者ともなった。
現在は、ストリートに生きる人々を撮り続ける写真家としても活躍している。 http://www.martinsorrondeguy.com