何かを続けるということは、それに関連するものと継続的に向き合うこと。学び続けること。
必要なこと、もしくは一見すると必要でないことをインプットし、
それらを自分の中で寝かせて、自分がしっくりくるまでアウトプットしていく。時には、インプットを休むこともあるけど、寝かせて醸成させるために必要な大切な余白。
グラフィックの中で、時には自分がやりたいことにチャレンジもするが、
多くは場にいる人からの依頼だったり、状況に応じたものを生み出さなければという、
ある種、自分の外からの要請の方が多い。
そうやって、自分では思ってもいなかったものが新しく自分の中からアウトプットされる。
余談だが、ファシグラをしていて「自分の可能性は、人が広げてくれる。」と気づいたことは大きい。自分で、無意識に作っていた自分の枠を悠々と広げてくれるのは、多くの人のフィードバックやアドバイスだ。とにかく何でもやってみてその中で成功や失敗の経験をする。すると、その度に、自分がやっている事への感覚は研ぎ澄まされていく。
たとえその場では納得のいくアウトプットができても、
もっとあの場に合った形はなかったかな?
そもそもこれでいいのか?
自分が目指してるものってなんなんだ?
など、ふりかえりながら新しい「問い」が湧き上がってくるようになるものだ。
今回からは、ファシグラを続けてきた中で生まれた1つの「問い」を取り上げ、探究したいと思う。
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ファシグラを始めて3年目。
僕は、1つの問いと向き合っていた。
「僕がかく事で、参加者の参加の機会を奪っていないか?」
この問いが生まれたのは、必然だった。
僕自身がファシグラを始めた頃から一貫して目指していたのは、ファシリテーターになることだった。(今はちょっと違う。これは、また今度)
しかし、この時の僕は、場に立つ機会の内、約8割がグラフィックを行う役割。ファシリテーターと言うよりもグラフィッカー。それは誰の目から見ても明確だった。
確かに、グラフィックをして話し合いや対話を見える形にしていくことは、それ自体がファシリテーションになる。
かいたものは話し合いの土台となり、それを元に次のフェーズに進んでいく。残しておけば、ふりかえりにもつながる。
かくことは何よりも楽しかったし、成長も実感できた。
しかし、本当にこれは自分が目指している姿なのか?
今やっていることは自分が目指しているファシリテーションなのか?
僕が目指しているファシリテーションは、参加者一人一人と共に場を作り、一人一人が場に対してオーナーシップを持つことだ。
言い換えれば、参加した人がその場を自分ごととして捉えて、様々な他者との差異を乗り越え、多様性を活かし合いながら、目的を達成していくサポートをすることだ。もっと突き詰めるなら、作る段階から参加者とともに作ること。一人一人のオーナーシップが生まれる場を作ること。
そう思うと、この時の僕はかくだけしかしておらず、多くの人と共に作り上げたいと思っているのに、自分のスキルだけを発揮している状況だった。
この役割を担う人は僕でない誰かでもいいはずだ。かいてイメージを見える形にし、共有するという目的を達成するには、何も僕1人で行う必要はない。かきたい人が「かく」という行為を通して、それぞれのイメージを共有すれば、オーナーシップも生まれどんどん場が自分ごとになるのではないか?
そう考えると、僕1人が書くということで、せっかく他の誰かがかくことで場に参加する機会を奪ったり、みんなでかき出して学び合う機会を奪っているんではないかと思うようになってきた。
特に、3年目の状況をふりかえると、僕は、参加しずらい雰囲気がある参加者の人ばかりが目に付くようになっていて、そういう話し合いに参加しずらい人のサポートは全然できていない自分に悶々としていた。
やりたいこととやっていることの乖離もまた、僕自身を苦しめた。グラフィッカーとしての評価は安定してきたけど、ファシリテーターとは見られない。
僕もかくという強みを活かしながら、参加している人たちとともに場を作り上げたいという想いが日に日に増していった。
このモヤモヤとした思いを解消するために、そもそも僕が目指しているファシリテーションというのは、ファシリテーショングラフィクという形で表していいのか調べることにした。そのためにまず、自身の経験を整理し、先輩のファシリテーターと対話をし、参考になりそうな文献をあたることにした。
そうすると、ファシリテーショングラフィックの定義は人それぞれで、誰が何をすることがファシリテーショングラフィックと呼ばれるものなのかがあいまいになっていることが明確になってきた。
一般的な定義は、堀さんと加藤さん(日本ファシリテーション協会)が言っている「議論の内容を、ホワイトボードや模造紙などに文字や図形を使って分かりやすく表現し、「議論を描く」こと」である。しかし、これは、一般的な会議の場面を指しているように思う。僕が目指すのは、みんながグラフィックをかいて使って対話を進めていく形。日本でいう一般的なファシリテーショングラフィックの形とは少し違うように感じる。
なお、ファシリテーショングラフィックとは日本で生まれた造語であり、その本流をたどっていくとそのような言葉は使われていないことも分かってきた。
ファシリテーショングラフィックは1970年代にアメリカ西海岸を中心に住民参加のまちづくりや非営利組織の話し合いの中で用いられ、The grove consultants international 社のデビット・シベット、ダニエル・アイソファーノらによって体系化された。ここでは、ファシリテーショングラフィックという名称は用いられず、グラフィックファシリテーションまたは、ビジュアルミーティングという名称が用いられている。
アメリカのグラフィックファシリテーションは、誰かランクの高い人が1人でかくという形よりも、それぞれの持つイメージを各々が形にしたり、フォーマットを用意してそこにみんなで埋め込んでいくという形をとることが多い。ファシリテーショングラフィックとは、概念が異なると考える。
1990年代後半に日本でも少しづつ使用されるようになり、その中で、ファシリテーショングラフィックという言葉が登場してきた。
日本のまちづくりの中では、村文化の中での誰か1人がリーダーシップをとって進めることが一般的だったからこそ、1人がかくという方が浸透しやすかったのではないだろうか。
また、ファシリテーショングラフィックと類似する手法として最近では、グラフィックレコーディング、スクライビング、リアルタイムドキュメンテーションなどの手法が用いられることもある。
特に、堀さんなどが定義したファシリテーショングラフィクの定義にグラフィクレコーディング(ファシリテーターは別にいてグラフィッカーがかくという形)が包括されているため、ファシリテーショングラフィックと混同されている。
日本においてはファシリテーショングラフィックと言う名称はグラフィックレコーディング、ファシリテーショングラフィック、グラフィックファシリテーションの3つの類型を合わせた広義の名称として使われることが多い。
つまり、これまで僕がやってきたのは、グラフィックレコーディングであり、ファシリテーショングラフィックという言葉に包括されてきたからファシグラと呼んでいただけに過ぎなかった。
混同を避けるために、僕自身は、ファシリテーショングラフィックの定義に
①話し合い中に必ず参加者全員が見える所で記録するという点
②ファシリテーターがグラフィックを兼任する点
の2点を加えてファシリテーショングラフィックと定義しようと思う。
長々と細々したことを書きましたが、7回目の記事にしてようやくファシリテーショングラフィックってなんなのか知っていただけたのかと思います。
分かりにくいことを書いたので、次回、この点について僕が目指しているのはどんな形なのかをかこうと思います。