出身地を聞かれると、愛媛県だと答える。福岡に住んでいた頃はそれだけで十分だったけれど、わたしは今、香川で暮らしているから、生まれ育ったのは同じ四国にある「愛媛」の「どこ」なのかというところまで、聞かれることが多くなった。
わたしの出身地は「愛南町」という町だ。その名の通り愛媛県の南部に位置しているが、2004年の合併で愛南町が生まれるまで、わたしが暮らしていたのは「内海村」という村で、自分の暮らす村が町になって名前を変えたとき、わたしは小学生だった。(当時、町民から募集した町名の一覧に「ミュウツー町」(ポケモン)という名前があって鼻で笑ったことを、なぜだか強く覚えている。かくいうわたしも、「美海町」とか「南美町」とか、誰にでも考えつくような名前を、採用されたらどうしようとそわそわしながら応募したのだから、似たようなものである。)
合併したばかりの頃、村立から町立表記に変わるため新しくなった中学校の看板が艶々と光を反射させているのを、車の窓越しによく眺めていた。そして、その光を見ながら、村が町になったということを実感しようと試みて、いつもこっそり失敗した。看板の角が鋭く放つ一瞬の光、所在なさそうに小さく広がる生徒のいないグラウンド、そこに植えられた木々の緑。何かが大きく変わったはずなのに、悲しさも嬉しさも感じられなかったどこか落ち着かない感情が、そのときの風景と結びついて、今もくっきりと残っている。
「内海村」には、コンビニもスーパーもなければ、肉屋も八百屋も豆腐屋もなかった。買い物をするには、車に乗って隣の町まで出かけて行く必要があった。その隣の町と合併することで、わたしは、それらの店を自分の住む町のものとして所有することになった。だが、愛南町民になったとはいえ、そもそもその土地には、映画館や大きな書店、センスのいいカフェ、おしゃれな服や雑貨を買えるような個性のある店はない。そうした土地を退屈な田舎だと見切ってしまうのは一番簡単で、自分を含め、同年代の多くの友人が、愛南町を離れ、松山や県外に出て行った。
愛南町を離れたわたしは、たくさんの人、たくさんの物、たくさんの選択肢がある土地で暮らし始めた。新作の映画が映画館で観られるのは何より嬉しかったし、趣味の合う友人と好きな服を着て出かけて好きなものを食べて過ごすのは楽しかった。けれど、映画館を出て、友達と別れて、服を脱いで、ひとりの部屋でテレビの音をぼんやりと聞いていると、どうしようもなく不安になっていた。
欲しいもの、観たい映画、行きたい場所は毎日毎日更新されて、退屈はしないけれど、果てがなかった。選択肢が少ない町では退屈だったが、選択肢が多い町では、選び、手に入れることの繰り返しで、いつまでたっても満たされなかった。愛南町に住んでいた時には、何もない町を退屈だと否定することができたのに、望んでいたものは全てある生活を送っているわたしは、気がつけば、自分自身を否定しはじめていた。
愛南町には確かに特別な店や場所はなかったが、そこには、家族と暮らす家があり、そこで十分生活できるだけの食べ物や日用品を売る店があった。そこは、「何もない」土地ではなく、「普通の」土地であり、わたしは、その土地で十分に暮らしていける、「普通」の人だった。「普通」な自分には「何もない」と感じることが、苦しかった。わたしは、特別な「何者か」になりたくて、もがいていた。
「アール・ブリュット」という言葉がある。「アール・ブリュット」は、生の芸術という意味のフランス語で「正規の美術教育を受けていない人々のやむにやまれぬ衝動によって生みだされてきた芸術表現」と定義されている。その言葉自体に障害の有無は含まれていないが、精神の療養のために描いた絵がアールブリュットとして評価されることがしばしばあり、アールブリュットミュージアムで展示される多くの作品が、精神障害のある人々によるものである。
昨年の秋、広島県福山市のアールブリュットミュージアムである「鞆の津ミュージアム」へ、友人と足を運んだ。友人は、大学時代にちょっと風変わりな教員が主宰する同じゼミに在籍しており、彼女はアール・ブリュット、わたしは瀬戸内国際芸術祭が、卒業論文の研究テーマだった。
開催されていたのは、それまで様々な展示を企画していたキュレーター・櫛野展正氏の「鞆の津ミュージアム」における最後の企画展であった。「障害(仮)」と銘打った展示では、例えばフェルト生地や毛糸などを使って食品サンプルを再現制作している人、自作の漫画を原作にしてアニメや特撮を制作する人、自分が食べた料理のイラストと感想を描き続けている人、精神障害のある人、身体障害のある人、現代美術家として活動している人など、「アール・ブリュット」という言葉では捉えることのできない、多様な表現がそこにあった。
それらの作品は、例えば誰が見ても「美しい」と思うものではないかもしれないし、何か、社会に対する疑問を投げかけたり、個人の思想を覆すかのような機能を狙ったものでもない。
しかし、そこでわたしは、目の前の作品・作家に対する「羨ましい」という感情が身体じゅうに浸食し、自分の中に湧きあがる感覚を言葉にすることも、その作品を好きか嫌いか、という判断すらも出来なくなってしまった。わたしは、この「羨ましい」という感情を、うまく扱えず、どうすればいいのかわからないまま、展示室を何周もして、作品の前に立ち続けていた。
あのとき感じた「羨ましさ」の波は、どこから押し寄せてきたのだろう。
彼らの作品が、自分では到底考えつかないような「天才的」な作品だからだろうか、障害があることの「特別さ」にどうしようもなく惹かれているのだろうか。
いや、きっと、その逆なのだ。
特別ではなく、ごくごく普通の、彼らがそれぞれ積み重ねてきた日常の結晶。
生々しい体温を持って存在していた表現の、自分にとって当たり前の日常を恐れない強さが、わたしは、羨ましくて仕方がなかったのだった。
誰もが、自分でしか知りえない感情を持ち、自分の日常を送っている。そのことを認識しないまま、仕草や表情、姿形や、あるいは肩書など、他人の目からみた評価と自分でしか知りえない自分の日常を比べようとするから、わたしは不安だったのかもしれない。
「普通」で「何もない」と思っていた自分の日常も、「羨ましい」と感じた彼らの日常の同一線上に存在しているのだ。
スーパーもコンビニもない内海村、スーパーやコンビニはあるが個性のある店はない愛南町、学生時代を過ごした福岡、今暮らしている香川、どこに住んでいても、わたしは、その土地で、わたしの日常を送ることしかできない。
でも、それでいい。
また、一日が始まる。
わたしは、わたしの日常を、生きている。
(写真は、香川県在住の写真家・宮脇慎太郎さんが撮影した、愛南町・内海地区の秋祭りの様子です。)