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当番ノート 第27期

「誰かを傷つけている覚悟をして書く」と、作家の西加奈子さんが話していた言葉を、ここへ書き留めておきたいと思っていた。

あるテレビ番組で語られていた言葉で、(テレビを持っていないので、ネットでこの番組が配信されるのを毎週心待ちにしていたのですが、西加奈子さんの回で終了してしまいました…二期放送希望…)一緒に出演されていた作家・角田光代さんの「何度書き終えても逃げてしまったような気になる」という発言に大きく頷いた西さんは、ベストセラーになった自身の作品『さくら』について、「死なせなくてもよかったと今でも後悔している」と言葉を続ける。

だから、「『サラバ!』という作品では、登場人物の人生を「死」ではない形で書ききろうとした」のだと。

『サラバ!』を読んでみたいと思った。

西さんの作品を初めて読んだのは、大学時代に友人から勧められた『さくら』だった。それから何作か作品を読んだけれど、どの作品も、終わり方がしっくりこない。しかし、『白いしるし』を読んだときに物足りなさを感じなかったのは、この物語では、「恋愛」の終わりとともに物語が終わったからなのかもしれない。

ある人との恋愛は、終わるときがくる。
でも、人生は、途中でちょん切ることができない。
西さんの作品は、物語の熱量が強くて、終わりが唐突に感じられてしまうのかもしれない。

『サラバ!』は上下二巻。分厚い本だな、と思いながら平積みしていたこの作品を、あらすじすらほとんど知らない。西さんは、どう書き切るのだろうか、一人の人間の生きる様を。

西さんの言葉を聞いて、その意味が理解できたのは、「覚悟」のある言葉や態度がどんなものであるか、自分の中に物差しができていたからだと思う。自分の言葉を持って誰かを「傷つける覚悟」というのは、同時に、自分が「傷つく覚悟」だろう。

ここ「アパートメント」での連載のお話をいただいたとき、田口史人さんの『二〇一二』を読んだのは、意識的だったのか、直感だったのかわからないけれど、わたしは、覚悟がしたかったのだと思う。

自分の書いた文章に覚悟があるだろうかと問うときにも、田口さんの言葉を読み返している。

田口さんは、高円寺で円盤という店をやっている。円盤では、音楽を中心に、ライブをしたり、日本各地で作られた自主製作盤と店で制作した作品を中心に取り扱っている。店でオリジナルで作ったもの以外は、作った本人から直接預かったものだけを置く。田口さんは、店で扱っている作品を持って「出張円盤」という形で全国を回っていて、その行く先々で、「レコード寄席」という古いレコードを聴く会を行っている。

去年の年末、小豆島・迷路のまちの本屋さんに来ていただいた出張円盤で田口さんと知り合った。田口さんの著作『レコードと暮らし』が、迷路のまちの本屋さんで取り扱っている出版社・夏葉社から出版され、夏葉社の島田さんが声をかけてくださったのだ。

その日のレコード寄席では、入門編として、「レコードって何?」というところから、卒業記念レコードや企業の宣伝レコード、個人が趣味で作った音楽レコードなどを流し、それらにまつわる物語を田口さんが語っていく。特別なことは何もない。それでも、本当に楽しい体験だった。ここでは詳しいことは書きませんので、ぜひ、実際に体験してみてください。

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芸術祭に関わる中で「アートがないと島にはなにもない」という喪失感を覚え、芸術祭やアートが地域に入り込んでいくことに対して不安を感じていたとき、豊島で「てしまのまど」というオルタナティブスペースを運営しているアーティストの安岐理加さんに出会って、理加さんの活動は光だ、と思った。
豊島に居を構え、そこに暮らしている人と生活者として関わりながら、考古学者を招いた島歩きを企画し、自身のスペースにインスタレーションとして民具を設置する彼女の活動を、なぜ「光」と捉えたのか、卒業論文で取り上げたけれど、結局曖昧な表現で終わらせて逃げてしまったことを、ずっと引きずっていた。

まだ、きちんと言葉にできない。論文にして人に説明することが、いつかできるようになるのかも分からない。けれど、レコード寄席も、光なのだと思った。またひとつ、光を見つけた。それが嬉しくて、レコード寄席が終わった田口さんを独り占めして話しかけていたわたしに、後日、人伝いにアドレスを聞いた田口さんがメールをくれた。

このときもらったメールをとても大切にしていて、さらには、悩みを話してくれる友人に送ることもある。
何度も読み返したこの言葉が、今の自分の根底にあるように思っている。

「僕は「アート」って言われてることがだいぶ嫌いで、なんか普通の日常が、「アート」をかぶせないと退屈みたいに言いふらしてるみたいで。
レコ寄席でかけてるレコードはみんな「自己表現」も「アート」も関係なくて、だけど、創造性もあって生き生きしてると思うんだよね。
それをもう「アート」って言葉に毒されちゃってる人だと、「これもアートだよね!」みたいに言われちゃったりして。アートに入れてあげるみたいな。
入れなくていいし、そのままで、人間は誰だって悩んで考えて生活してるんだから、その生命力だけを受け止めればいい。

特別に面白がらせたり、大騒ぎしたいわけでもないし、そういうのもういいよ、って思ってる。
レコ寄席でかけてる中に出てくる不思議なレコードも、暮らしの中での自然な行為の範疇で生まれてるんだし。
「アート」はね、別にいらない。

中田さんは何も起こらないと、なんかじれじれしちゃうのかな。
じっとしてられない感じ?」

田口さんとは、小豆島以後、新潟と高松でお会いした。

田口さんと話していると、自分から出てくる言葉が頑張って作った言葉であることに気付く。「こう見せたい」「こうありたい」という考えを排除した言葉、自分の経験に見合った言葉で話したいと思うのに、やっぱり、背伸びしてしようとしてしまうのは、どうしてなんだろう?つま先を立てようとしていることに気付いて足を地面につければ、今度は、うまく言葉が出てこない。

わたしは昔から「おしゃべり」が得意な方だったけれど、最近、言葉が詰まってしまうことがよくある。思えば、この連載で書いた人と話すとき、わたしはいつも上手におしゃべりすることができない。借り物の言葉や、その場限りの考えでは通用しないことがある。そのときに、「覚悟」が必要なのかもしれない。

いつでも誰とでも覚悟を持って話さなければいけないわけではない。言葉を使わなければ相手のことを知ることができないし、自分のことを知ってもらうこともできない。言葉は、日常生活の中で使われる道具のひとつなのだ。包丁とか、鍬とかと、同じ。切らなくても野菜は食べられるけど切った方が食べやすいし、手よりも早く土を起こすことができる。その人の生活に合ったやり方で道具を使うのを見て、面白いと思ったり、それを真似てみたりするように、言葉にも、その人なりの使い方があって、おしゃべりしながらわたしたちは相手の生活を見ているのだと思う。

言葉は、道具のひとつであって、全てではない。
時間をかけて一緒にいれば、その人のことがわかることもあるだろう。言葉がなくても、通じ合えることは、きっと、あるのだと思う。
言葉には限界がある。
それでも、何かを人に伝えたいと思ったとき、わたしはやっぱり言葉を使うから、自分の言葉に責任を持ちたいと思う。
できる限り、生身の言葉を書きたい。
直接刃物が刺さって、撫ぜられたときに気持ちが良いように。

そんなことをひっそり決めて、わたしは、選挙に行った。

中田 幸乃

中田 幸乃

1991年、愛媛県生まれ。書店員をしたり、小さな本屋の店長をしたりしていました。

Reviewed by
猫田 耳子

“「アート」って言葉に毒されちゃってる人だと、「これもアートだよね!」みたいに言われちゃったりして。アートに入れてあげるみたいな。入れなくていいし、そのままで、人間は誰だって悩んで考えて生活してるんだから、その生命力だけを受け止めればいい。”

美術館は世界への窓という持論があった。
平坦で画一的な世界を、ひとつの色眼鏡が救うこともあるのだと。
そんな驕りを強く叩きのめされた気分だ。

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