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2F/当番ノート

改めて考える!!!どこか不安な世の中での僧侶のポジショニング

当番ノート 第28期

お疲れ様です。
僧侶の鈴木秀彰(すずきひであき)です
今回で第8回目。
今回も含めてあと2回になりました。

前回は、現在感じている僕の葛藤について、お話させていただきました。

周りの方からの僧侶に対する、ある意味願いとも言える「信念が強く、何事においてもぶれない」というイメージ。改めて、他人から自分はこう見られている、こういう存在であってほしいと期待されていることを感じました。

今、僕は有髪の僧侶です。
本来僧侶が坊主頭でいることは、欲をなくし自分を律するという意味があるようですが、それに対して、僧侶が欲をもってはいけないのかという疑問があります。
僧侶も人間。
ならばその欲をどのように扱うのかが大切なのではないかという結論に至り、今のスタイルになっています。

その姿を人はどのように感じるかはわかりませんが、先程挙げたような、人々の願いや期待にも近い僧侶像を、少なくとも忘れなければ良いのではないかと思います。

今回は、そんな僕が今、描いている未来について、話を進めていきます。

今までいろんなイベントを実施し、いろんな方とご縁をいただいて、今後は次のような活動をしていきたいと考えています。

まず僕は、「仏教を伝えることを通して、その人自身の良さを引き出し、また自信をつけられるようなお手伝いをする人」でありたいと思っています。

僕も以前は自分の良さに気づけず、自信をなくし、その現状を見たくないので嘘をついたり、一人で過ごしたりしました。
でも、正直どこか寂しい気持ち、満たされない気持ち、空虚感がありました。

しかし他人と逃げずに向き合うことを通して、人は学び、成長していけるのだということに気づきました。

多くのイベントをするようになり、いろいろな方とのご縁で気づきや学びがありました。そこで、1人では気づけないことや学べないことの存在を知りました。それが視野を広げ、今をつくり、未来をつくっていく大切さに気づいたのです。

僕は僧侶です。その役割の一つに、仏教を伝えていくというものがあります。

不安、心配、ストレス、いらだち、効率、失敗してはいけない、時短・・・
周囲を見れば見るほど、みんなが落ち着けないでいる不安定な世の中ですが、仏教という考えを一つの参考にすることは意義があると思います。

仏教への意識が離れている今だからこそ、僧侶本来の活動が求められていると思います。

次に僕は、「自分に嘘なくアウトプットする場」を作っていきたいと思っています。

今は書籍やセミナーなどインプットをすることがなにかと多い時代です。

しかし、その逆でアウトプットする場ってまだ少なくないですか。
なんでも入れてばかりで、出さないと詰まってしまいます。
でも、ただ出せばいいのでなく、次の自分につながっていくことが重要だと思います。

それには自分らしく、正直にフタせず、アウトプットできる場が大切なのではないでしょうか。
失敗できない、まずいことを言ってはならないと恐れるあまり、以前の僕のようになってしまっては、せっかくアウトプットの場に参加していても、ただその場にいるだけになってしまいます。

そのようになれないためにも、主催者として話せる空間を作るのも大切ですが、参加者本人も自分と向き合い、積極的に発言するという姿勢が大切だと思います。

いろいろなセミナーなどに参加して、なんとなく満足感を得る。
でも時が経てばその話すら、忘れてしまう。

これはある意味人間の性なのかもしれません。しかし、どうせ同じ時間を過ごすなら、参加したことによる気づきや学びを次につなげていくことで、自分の中で定着させていく方が有意義です。学んだことを振り返れば、まだ足りていないことへも気づき、また学ぶ意識が高まるというポジティブな流れも生まれてきます。

みんなもっと恐れずに、いろいろそのときそのときで思っていることを発言したり、行動すればいいと思います。失敗して初めて分かること、行動して理解できることがいっぱいあります。

僕もいろいろな話をして、わからないこと、足りないことに気づくことがあります。
それをそのままで放置せず、すぐに行動に移すように心がけています。

僕が開くイベントでは、そうした、自分自身と向き合いながら、感じたことを遠慮せずにアウトプットできるような場を提供したいと思っています。

次回はいよいよ最終回。
この担当期間中、感じたことについて、話を進めていきます。

合掌

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鈴木 秀彰

鈴木 秀彰

僧侶。理学療法士。心理カウンセラー。
「人の一生に寄り添う僧侶」をテーマにいろいろやってます
仏教をどこか身近に、どこか面白いなって感じてもらえたら嬉しいです

Reviewed by
唐木 みゆ

鈴木 秀彰上人の
「改めて考える!!!どこか不安な世の中での僧侶のポジショニング」によせて



仏教は癒やしのことでしょうか。

日本の隅々、町なかのお寺での大乗の実践、もしくは布教の答えはそうかもしれません。
仏教的「行為」の中で外部からのストレスや欺瞞から開放されて楽になる、ということは確かにありますが、
それ以上に自分自身の欺瞞、不誠実、自己都合、ひたすら充満した不都合を凝視し、醒めることは
厳しく、辛いことでもあります。


ところで、
イベントやセミナーの参加でその時は満足してもおおむねやがて忘れていってしまうのは、なぜでしょう、
おそらく、体験に緊張がなく受動的なのだと思いますが
主体性を持って行い、小さくても責任を負っていると、体験が残っていきます。
それは発言の時もありますし、何かの行為です。
しかしこれは、イベントを開催する「意義」や、参加する「意義」を高めんとしている一方による向上心で、
私は絵描きなのですが、生産についてはコンセプトにのっとってすべきことを不足なく、贈り届ければ
あとは相手の心の所在によるもので受け取り方、消化の仕方は望むべくないと思っています。

もちろん、コンセプト自体が対話になればアウトプットしてもらうのも必要で
「アウトプット出来る場」は、日常でアウトプットできないことを受けての結果だと思います。
一般的に日本の社会ではアウトプットするよりも「よく聞くこと」が美徳とされますから。
お寺が一息つける場所であることは、そうであってほしいと思います。
つまりやがて自分で、一息つけるようになるまで。

これは問題提起でもあり別の機会のお話でもあるのですが、
その時、お寺は不要になってはいないか。
と思うことがあります。




レビュー:唐木みゆ

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