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2F/当番ノート

僧侶がお寺中心にイベントを週2、3回開催する理由

当番ノート 第28期

お疲れ様です。
僧侶の鈴木秀彰(すずきひであき)です

今回で第3回目。

前回は、なぜ「人の一生に寄り添う僧侶」というテーマに出会ったのかについてお話させていただきました。

以前働いていたホスピス病棟で、臨終の間際にいる人たちと関わった経験から、その人たちが亡くなった後の供養のためでなく、その人たちが生きている”今”を支える関係性をいかに構築していくかが大切だということを学んだのです。

そんな僕は、みんなが日常的に仏教に触れる機会を増やすため、週2、3回という間隔で、座談会、シェア会、ワークショップ、イベント出店、1対1の対面といった様々なイベントを開催しています。今回はそうしたイベントでの関わりから学んだことについて記していきます。

お寺で開催した最初のイベントは、僕の考えに共感してくれた友人の力を借りての音楽会でした。当時の僕には、自力で誰かゲストを呼んだり、集う場を企画開催できるような人脈や実力もなく、友人に頼るしかありませんでした。

でも、そのようなご縁で開催したイベントはある意味奇跡を生みます。

「音楽」という字を見ますと「音を楽しむ」と書きますが、まさしくお寺本来の役割の一つである「楽しむ」を体現する企画となり、100人を超える盛況となりました。

次に企画したのは、子育てママ向けのヨガ教室です

どこか暗いイメージのあるお寺に賑わいや活気をもたらしたいという思いがあり、普段お寺とは縁遠いであろう、子どもやママたちが気軽に参加できるイベントをしたいと考えたからです。

当時は珍しく、お寺の集いに小さい子どもたちも同伴できるイベントだったこと、また、ヨガの先生の人柄もあって人気のイベントとなり、継続的に開催することができました。

そうして、友人・知人の力を借りながら多くのイベントを重ねていく過程で、ある気持ちが僕の中に芽生えてきました。誰かの力を借りる他力的な形式ではなく、僧侶である僕自身が講師となってできる企画に挑戦したいという気持ちでした。

そこで実施したのが、「瞑想写経会」です。

各地のお寺で開催されている会に参加して、良い部分を取り入れながら自分なりに企画をしてみました。実際に自分が講師となってイベントを開催してみると、事前の企画・告知・集客に、当日の講師役や会場誘導などやることは盛りだくさん。正直疲労感もありましたが、今まで体感できなかった達成感も強く、自信をつけるきっかけになりました。

現在、毎月第2日曜日休むことなく続けており、おかげさまでもう少しで50回目となります。

その後も色々なご縁をいただきながら、子育て座談会、映画会にパン教室など、次々とイベントを開催していきましたが、イベント開始当初から、一貫して大切にしていることがあります。

それは、各イベント内で法話を行うなどして、参加者それぞれが必ず仏教に触れられる時間を作るということです。

昔は辻説法のように、生きている人に対して仏教を感じる時間が身近な日常の中にありました。そもそも仏教の教え自体が、死者のためのものではなく、生きているものに対しての教えなのですから、考えてみれば当然のことです。

ですが、葬式仏教が主流となった現在では、人々が仏教に触れることのできるのは、誰かが亡くなった時や法事などが大半です。イベント開催当初は、参加者の中にもそのようなイメージがまだまだ残存していました。

しかし、実際に活動をしていると、仏教に興味を持ち、僧侶と話をしたいという方は思いのほか多いことに気づきます。このことは大変嬉しかったのですが、同時に、この活動を周知しなくてはならないとの気持ちがいっそう強くなりました。

イベントを主催してようやく実感したのは、生きている人に僧侶として関わる時間が今までいかに少なかったかということでした。その時間の少なさが生んだ僧侶と他者との距離感。話してみたいけど気軽にできないという声、こころの壁、こころとこころの距離感があることを知ります。

確かに葬式や法事を務めることは僧侶にしかできない大変重要な役割でありますが、それ以外にも生きている人に仏教を伝えるという役割も本来の姿ではないかということに気づきました。

その距離感を埋めるためには、まず僧侶という一面と共に、鈴木秀彰個人としての姿や考え方などを知ってもらうことも大切だと考えました。

「この人と会って、話してみたい」という気持ちや、「この人が開催しているイベントなら行ってみたい」という期待感を抱いてもらえるように、生きている上で疑問や悩みを持ったらいつでも気軽に話せる身近な存在になろうと誓います。

老若男女いろいろな方に関わることで視野や考え方を深め、いろいろな人の声に応えていく。そのことを通して、生きている人にとって、仏教をより身近な存在として広げていく。それが、僕がイベントを開催する理由の一つです。

イベントを開催するもう一つの理由としては、学びと実践の場を増やし、僧侶としての実力を高めたいという気持ちもあります。 書籍から学ぶことにはどこか限界があり、他者から学べることや気づかされることが多いことを、会を重ねることで知ったからです。

例えば自分の法話をしている最中に、あまり理解できていないと明らかに分かるような表情で聞いている人と出会います。また、法話をしている自分自身も、ある言葉についてまだまだ分かっていないという実感を得たり、突然来る他者からの質問に対して分かりやすく説明できない自分に気づくこともあります。これは、僕にとってある意味奇跡的なご縁でした。

こうして僕は、イベント企画を通して、書籍では学べない貴重な体験や、さまざまな人とのご縁を結んでいきました。

さらに現在では、イベントの開催場所をお寺のみならず、カフェ、図書館や公民館など、いろいろな場所へと広げています。それにはある理由があるのですが、次回はそこから話を進めていきます。

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合掌

鈴木 秀彰

鈴木 秀彰

僧侶。理学療法士。心理カウンセラー。
「人の一生に寄り添う僧侶」をテーマにいろいろやってます
仏教をどこか身近に、どこか面白いなって感じてもらえたら嬉しいです

Reviewed by
唐木 みゆ

鈴木秀彰上人の
「僧侶がお寺中心にイベントを週2、3回開催する理由」によせて


宗教は、神仏をいることにする設定ではなく
法理そのものなので、例えば物が落下するといったような物理法則の延長線上にある摂理のことを言っています。
だから、興味があろうとなかろうと現在の世界にいる以上、摂理のなかで生きる(死ぬ)ことになり
人は生きている中でほら、色々あるから、その中での苦い経験則なんかはある程度人それぞれ宗教性になっていると思う。

というのはここでいう書籍的な内容でして、つまりそういうことをどの程度実感して、実行できるかってはなし。
そりゃ、傷ついたりメチャクチャなことが起はこるし「なんでこうなっちゃったんだろう」って原因を考えちゃうでしょう。
泥酔して忘れるのを続けてもいいけど、それだと永遠に逃避を繰り返してしまうから原因をね、痛いけど見なきゃいけない。
私はぜんぜん理解が浅くてこと仏教について正確に伝えられる自信はあんましないのですが、
「生きているものに対しての教え」って、そういうことなんだと思います。

いつもお寺の門が開かれていたら、ズタボロになってもほうぼうのていでお水をもらいに行けるじゃない。
水は今、必要で、死んでからじゃないんだ。



唐木みゆ

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