1日目。経由地のアメリカで別行動をして、あちらも自分の用事を済ませてきた夫と、オアハカの空港で落ち合う。 昼過ぎに、アパートに着いて荷解き。スーパーを探して歩き、パンだの、塩胡椒だの、洗濯石鹸だの、洗濯紐だのといった、当面の生活に必要になりそうな物を買い揃える。帰ってきて洗濯をすませる。
2日目。寝坊して、遅い昼食にと、アパートの1階にあるカフェで本日のお勧めを頼んだら、コオロギのオムレツが出てきて驚いた。ふわふわした卵の中にコオロギのぴりっとした辛さがアクセント。それが美味しかったことにも驚いた。夜は散策に出た途端に夕立に降られ、雨上がりの中央広場でトルティーヤのスープを食べた。レストランに来たバンドの演奏に会わせてゆったり踊る年配のカップル達を眺めながら、「ここはメキシコなんだな」と実感なく考えた。それは夫もそうなのか、お互いに「ついに来たね」「ここメキシコだよね」と、確認作業のように繰り返す。ところどころの道で迷子になりながら帰った。
そして週末が明けて、夫はあらかじめ申し込んでいた語学学校に向かうようになった。朝早く、彼は家を出る。私はそれを見送ってからもう一度まどろむ。シャワーを浴びて、確認ごとをしようと開いたfacebookに捕まり、しばらくネットの海を泳ぐ。
ああ、外に出ないと。
朝の「出なきゃ」と「もう少しゆっくり」の間の気だるい綱引きは、三鷹にいたころからあまり変わらない。違うのは、窓の外。さんさんと差し込む太陽。 道行く人たちの話すスペイン語、通り過ぎるトラックがかけているラジオの曲。向かいの食堂には、お昼頃が近くなると、マリンバのバンドがやってきて、何曲か演奏して、お客さんにチップをもらってまた別の店へと出かけていく。毎日同じ曲だけど、なかなか素敵だから、気に入っている。
大体はマリンバの演奏を合図に、ようやくアパートを出て、町を歩き始める。 昼の日差しは、カラフルな家の外壁を白くしてしまう程に強く、日陰に隠れながら歩いている。市場や八百屋案さんを開拓して、カフェに座ってこんな風にとりとめもない文章を書くこともある。彼には言いたくない心の内を書き付けて、整理してみようともする。たとえば彼の隣でうまく眠れないこと。
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最初の数日、私は毎晩、夜中まで寝付けず、早々深い眠りにつく彼を起こさないように、そっとベッドを抜け出して小さなソファーに足を曲げて収まっていた。そうして本を読んだり、とりとめもないことを書いたりしていると、やっとまどろみ始めて、もう絶対に眠れるというところまでいかないとベッドに戻れなかった。時差ぼけとは違う、何かがしっくりこない奇妙な感じが続いていた。
思えばこれまで旅先で眠るときは一人だった。予算を抑えるためにドミトリーに泊まったり人とシェアしたりすることはあるけれど、同室の彼らは他人だった。それぞれのペースで寝支度を整え、本を読んだり、日記をつけたりして、ぼんやりしたりして、いつの間にか眠りに落ちる。 旅先の夜、私は私の世界の中に入って、普段は考えないようなことにあれこれ思いを巡らせた。 それは暮らしの中で、毎晩、彼と隣合わせで眠るのとはまた違った感覚だった。夜の眠りへ向かう一人旅。
ホームにはホームでの、旅先では旅先の夜と眠りがあったのに、その要素が混ざり合っていて、どうやって眠りに辿り着いていいのか分からなくなってしまっている。
そんなことをカフェでノートの上に書きつけていたら、ふと、寝室の色が海の色だということに思い至った。 新しく暮らし始めたアパートはメキシコ風にとてもカラフルで、居間の壁はオレンジ、キッチンは黄色、そして寝室は青色だ。かなり深い青。冒険も、ホームも、過去も、未来も、海には全部が混ざっていている。海の中で眠っていると思えば良いのかもしれない。今晩は海の中を潜るつもりで寝てみよう。
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夕方が近づき、太陽の力が少し弱まると、青い空と白い雲の向こうから灰色の雲が近づいてくるのが見える。そして夕立がやってきて、昼間この町に溜まった熱をとりさって流れていく。
携帯電話が鳴った。知らない番号からだった。出ると穏やかで低く、あまりにも懐かしい彼女の声がした。
「今どうしている?」
「あなたの町にいるよ」
電話の両側で一瞬の間があった。着いたことは新しい電話番号と合わせて伝えていたけれど、これが現実なことをちゃんと分かるために、これまで離れていた時間を超えて分かる為に、私は電話に耳を押し当てた。きっと向こうも。
「いつ会える?」
「いつでも」
「じゃあ、明日は?こどもたち連れて行くね」
「私も彼を連れて行くね」
愛おしむような声で彼女は「じゃあ、明日ね」と言った。その言葉を噛み締めるように。
私たちにはそれぞれ家族ができた。それは考えてみればとても奇妙なことだ。私には他人でありながら自分でもあるような、輪郭が一部重なっているような存在の人ができて、彼女は自分の中からふたりの子どもを生んだ。私がそれでもひとりの時間を必要とすることについて、彼女だったらなんて言うだろう。明日から同じ町で、時にお茶をしたり、時にご飯を一緒に食べたりしながら、私たちはそんなことも話すかもしれない。
帰り道、雨あがりにつやつやと光る石の道を歩いて、家の側の八百屋さんに寄った。3回目にもなると、顔を覚えられてもらっていて、優しそうなお店のお父さんが「Hola Mi Hija! (やあ、私の娘よ)」と声をかけてくれた。こちらの人は、他人にも、娘よ、息子よ、と親しみを込めた挨拶をすることがある。彼が自然にきゅっと縮めてくれた距離が私は嬉しい。
赤い壁のアパートに戻って、オレンジ色の居間の電気を付ける。向かいの食堂では働いているお母さんたちが鉄板にトルティーヤを乗せて焼き始めている。ギターを持った男女が入っていって二重奏の懐メロを歌い上げる。私は窓を空けてこっそり聴衆になる。黄色いキッチンで買ってきたトマトやアボガドや玉葱を切ってサラダを作る。もうすぐ彼が語学学校から帰ってくる。
お互いにほぼ一人旅しかしたことがないふたりが一緒に旅をする。それも家を借りて、そこを拠点に暮らしながら旅をする。それはこれまでふたりで築いてきた暮らしを、そのまま冒険に持ち込んでいるような感覚があって、馴染んだ旅の感覚とは大分ずれている。これからもきっとしっくりこない瞬間は出てくるだろう。それでもきっと。
私にとっての町の印象は出会った人や景色の集合体でしかないけれど、ちょっとずつ集まっていくこの町のそれらは、カラフルで、少し驚きがあって、少し懐かしくて、そして優しい。
きっと私たちはここで愉快に暮らしていける。
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アパートメント。2回目の連載。読んでくださってありがとうございました。
前の連載で書いたパズルのピースについて、もう少し丁寧に、虫眼鏡で見るみたいに細かく観察してみたいなと思いながら書いていました。月曜日の担当にさせて頂いたのは、なんとなくこの話を秋の月に預かっていてほしいなと思ったのが理由なのですが、そんなこと誰も言わずに始めたのに、私がレビューを担当させて頂いている礼子さんが、秋の月についてとても的確な文章を書かれていました。まさにこれ! 面白いな、アパートメント。
私のレビューはMaysaさんが担当してくださいました。いつも優しく包み込むようなレビューに励まされて、たくさん気づかされました。本当にありがとうございました。「いつかふたりの必然をつくっていく」 とは、Maysaさんがくださった言葉。いまはまだ相変わらずの根無し草をやっていますが、この旅がいつか、そう繋がっていったらいいなあと思います。