ヒーローのコスチュームは、体を覆うものだ。仮面も、服も、マフラーも、その奥にある何かを隠すためそこにある。仮面ライダー本郷猛は、境界線上に生きるため、仮面をかぶる。バッタをモチーフにしたライダーの仮面は、泣いているようにも怒っているようにも見える。仏像をモチーフにしたアルカイックスマイルのウルトラマンとは対照的だ。仮面の下に悲しみや怒りを隠し、ライダーは走り去る。
今日の本題は仮面ライダーの話ではない。
人が体を覆うときには、何かの理由があるということだ。
・・・では彼は、何のために手袋をつけ、そして何のために外したのか。
五星戦隊ダイレンジャー(1993)という番組があった。黒白の手袋と世界の関係を考察するには、この番組がふさわしい。第一回で取り上げたファイブマンの翌年が、大人に大人気だった「戦うトレンディドラマ」鳥人戦隊ジェットマン(1991)。その次がのびやかな世界観とキャッチ―な題材で戦隊シリーズを復興させた恐竜戦隊ジュウレンジャー(1992)。そしてジュウレンジャーの次に東映が世に送り出したのが、今回取り上げる大作「ダイレンジャー」である。
テーマは、中国拳法とシュールレアリスム。謎の取り合わせであるが、ダイレンジャーはまさに闇鍋ともいうべき魅力をもった作品だ。メンバー五人の間の序列を崩し、全員対等の主役とした作劇(なんとそれぞれ別の脚本家が割り当てられた!)、後のエヴァンゲリオン等の流れにも通じる、意味不明な謎を連打してあおっていくスタイル、そしてキレのいい拳法アクションで、戦隊ファンの一部にカルト的な人気を誇るのがこのダイレンジャーである。余談だが、私は戦隊シリーズの中でダイレンジャーが一番好きだ。
しかし、勢いのありすぎる作劇は矛盾を生む。五人の脚本家が好き放題書き散らし、それに演者の異常なテンションも合わさった結果、物語は繋がっているのかどうかよくわからない境地に達し、裏切りや死者が相次いだ挙句、すべてを操っていたはずのラスボスも誰かにつくられた人形だったという不思議な終わり方をする(そしてそれをテンションで押し切る)番組が出来上がった。
この作品について語りたいことはいくらでもあるが、今回は手袋の話だ。
手袋とダイレンジャーといえば、私は二人の敵キャラクターを思い出す。
的場陣。そして、阿古丸。
的場陣は、空手家であるキザな暗殺者だ。もともとおとなしく優しい性格であった彼は、師匠から本気で殺されかけ、左腕と引き換えに非情さを得て現在の進路に進んでいる。レッドである亮と街で出会って拳を交わしたことから、生涯のライバルとなり、何度も戦うことになる。義手の左手は武器でもあり、そこからは皮手袋を外すことがない。
阿古丸は、敵の幹部の息子である少年だ。父親から虐待を受けており、父を強く憎んでいる。敵組織内の対抗勢力の神輿として政争の具に使われている節があり、本人もそれを意識している。実は戦隊メンバーである少年コウと兄弟であるのだが、本人たちはそれを知らずに殺し合いを強いられている。常に白手袋をはめている。
この二人が黒白の手袋をはめる理由はなんだろうか。
それは、「世界への距離感」だと私は思う。
的場陣にとって、世界は一瞬にしてその色を変えるものだ。昨日まで優しく頼もしかった空手の師匠は、陣に非情さを教えるためにナイフを振り上げる。左手とともに陣は安心感を失った。白スーツを着てバラを加えるのは鎧だ。そうしなければ、世界に押しつぶされてしまう。バラの棘と黒手袋は、どちらも世界から陣を守る役割を果たす。
元の陣に戻って、と懇願するかつての恋人を、的場陣は義腕で刺し貫く。その瞬間の表情は映されない。刺し貫くのが手袋の義腕のほうだというのが象徴的だ。的場陣にとって、二つの矛盾する世界は耐えられるものではなかった。肉体のほうの腕で、彼女を刺し貫く事は出来なかった。過去を手袋で覆ったその腕だけが、世界と距離をとる。物語終盤、的場陣はその手袋をあえて外さず、的場陣として死ぬ道を選ぶ。
阿古丸にとって、世界は不安と怒りで覆われたものだ。生まれてすぐに母と引き離され、父親の虐待を受けていた彼のなかに、安心という言葉はそもそも存在しない。仮に安心を得ても、その事実自体を不安として認識するのが阿古丸という少年である。彼は世界と距離をとるために、服を利用する。極彩色のボタンがジャラジャラとついた、過剰装飾の子供軍服を羽織る。常に吹き戻しを加え、配下を並べる。そのすべてが彼の不安を象徴している。白手袋はそのガラスの感覚系の先端にある。幼く細い手を腕に至るまで覆う純白の手袋は、部下の手をつかむときも、上司の手をつかむときも外されることがない。
物語終盤、阿古丸は母と再会する。戦隊メンバーである少年コウのメンタルを責めるために監禁していた彼の母は、実は阿古丸の母でもあった。崩れる洞窟の中で、阿古丸は母に手を伸ばし、初めて手袋を外しその手を取る。そして、母とともに死ぬ。
的場陣にとって手袋は、血を隠すものであった。自分の弱さと恐怖に、向き合わずに済ませるための鎧であった。彼は不安を克服するも、手袋を外すことは選べなかった。
阿古丸にとって手袋は、自分を守るものであった。むき出しの恐怖だけがある世界から、自分の触覚にふたをするための壁であった。彼は恐怖以外の感情を知り、手袋を外した。
二人とも、世界と自分の間に手袋を置かなければ、生きることができなかった。
どちらが正しかったなどというつもりはない。
そもそも、この二人はともに敵側の人間であり、あまり素行がほめられた存在でもない。
ただ、圧倒的な不安と闘いながら、日々を過ごしているものたちがいる。
世界と自分の間に壁をつくり、距離を置かざるを得ないものたちがいる。
彼らが戦うために、手袋という距離が必要だった。
世界の棘は、手袋を貫いたのか。
番組に登場するすべての存在が本気で生き抜いたダイレンジャーという一年間。
さて、僕たちは、手袋を外しているのだろうか。