Twilight of the Utopia
ヒーローであること、とは、なんなのだろうか。
ウルトラマンは神ではない。救えない命もある。仮面ライダーだって、スーパー戦隊だって同様だ。海の向こうに目を向けてみても、世界そのものを救済できる存在はほとんどいない。それは、(もし再臨するならば)ナザレの彼あたりの仕事だ。
それでも、ヒーローは何かを守る。
ヒーローは誰かのために戦う。
守るべき対象があって、初めてヒーローはヒーローたり得る。「倒すべき対象」ではない。憎しみから悪を倒す戦士は、そのままではヒーローではない(例として「ファイブマン」のレイゾーバは、死の瞬間に初めてヒーローとなったと私は考える)。
さて。
ローカルヒーロー、というものたちがいる。
秋田県の「超神ネイガー」、沖縄県の「琉神マブヤー」などが有名だろうか。その地域を限定的に守る戦士たちである。
そんなローカルヒーローたちの一人に、「機動礼拝シーベリー」がいる。国際基督教大学ICU(とその周辺)を守るローカルヒーローである。愛と平和と世界人権宣言を掲げ、邪悪精霊と闘うのがシーベリーの使命だ。
もちろん、これまで紹介してきた作品群に比べるとマイナーで、映像的にもアクション的にも遠く及ばない存在である。評価が高い低い以前に、知られてすらいない。しかし、ここは偏愛総進撃の場。
最後くらい、自由にやらせていただこう。
今日は、機動礼拝シーベリーの話をしたい。
機動礼拝シーベリーシリーズにおいて、最も大きな転換点となった作品をあげるとすれば、それは、機動礼拝シーベリーRE:TREAT(2014)だろう。この作品において、リブートともリランチともとれるような大胆な仕切り直しを経て、シーベリーはコンテンツとして今日あるような形になった。機動礼拝シーベリーRE:FRESH(2015)、そして機動礼拝シーベリーRE:TAKE(2016)までを含め、同一のスタッフによって同一世界観の物語が展開されていると考えられる。この3作を、REシリーズ三部作と私は勝手に読んでいる。
なぜ今、この三部作を語るのか。
それは、これらの作品が「ヒーローとして生きること」の呪いとしての側面に深く切り込んでいるからである。
全体を貫くのは、戦士としてしか生きられず、その苦しみを終えたいと願うシーベリー、武蔵野ハルカの物語だ。
三部作の始まりであるRE:TREAT(2014)では、友人を救うためシーベリーになりたいと願う青年、富士嶺タカシが登場する。シーベリーにあこがれ、シーベリーに接近してくる彼に対し、武蔵野ハルカは「お前にシーベリーの何がわかる!」と激昂し、突き放す。富士嶺タカシは死に、魂を燃やして一瞬だけシーベリーに変身、友人を救って消える。武蔵野ハルカは、富士峯の死を救えない。
ここにおいて、武蔵野ハルカの偽善性が明らかになる。富士嶺を救うことを本気で考えていたのなら、力ずくでも彼を止めるべきであったのだ。シーベリーである覚悟。ハルカは一瞬でも仲間を求めてしまった。シーベリーである重荷を、降ろしたかった。しかし、降りてしまえば自分には何もないことがわかっていた。武蔵野ハルカは、意図的ではないにせよ富士嶺タカシを見殺しにした。結果として、ハルカは悲劇を背負った。
続くRE:FRESH(2015)では、謎の戦士ダークシーベリーがハルカの前に現れる。それはかつてシーベリーであった者だ。私は数年前にICUを守っていた、と述べるダークシーベリーに、ハルカの言葉は届かない。守るべきもののないヒーロー。シーベリーの影。影はハルカを糾弾する。シーベリーでいることは楽しいかと。守るべきものがあって、それを生きがいにすることができる日々はどんな味だと。ICUを守ることでしか生きられなかったかつての英雄は、現在のICUを守るハルカと戦い、憎しみと嫉妬を抱いて息絶える。
RE:FRESH(2015)において、武蔵野ハルカはふたたび自己のアイデンティティと対峙する。ジャンバルジャンというよりむしろ、ジャヴェルに近い自問自答。ICUを守ることでしか生きられないダークシーベリーは自分ではないのか。自分は悲劇の中に溺れることで救われているのではないのか。「止めなければ。同じシーベリーとして、ICU生として・・・人間として」。人間として、が最後に来るのは、武蔵野ハルカの、人間でありたいという意志だ。同時に、人間としてダークシーベリーを止めることにより、こちら側とあちら側に線を引くという表現でもある。こちら側には、「守るべきもの」が、あちら側には「倒すべきもの」がいる。戦うものは、どこかでその決意をする必要がある。
武蔵野ハルカの中には矛盾した二つの自分がある。
戦いを終え、平和な世界の中でシーベリーであることをやめたい自分。
戦いをつづけ、英雄としての物語の中に永遠にいたい自分。
この矛盾構造がたわみ、ついに崩壊をみたのが機動礼拝シーベリーRE:TAKE(2016)である。
武蔵野ハルカが選んだ結論。
武蔵野ハルカが見るべき世界。
武蔵野ハルカが見たかった世界。
RE:TAKEにおいて、武蔵野ハルカの物語は完結する。
RE:TAKEは複層的な読みが可能な作品だ。物語のどこまでが心象風景で、どこまでが作中現実なのかわからない。文学でいうならボルヘスに近い。よって、以下の読みもあくまで、作品を三回しか見ていない者の浅い読みであることをお断りしておく。
RE:TAKEは、RE:TREATの悪趣味な再演から始まる。シーベリーにあこがれる少年と、それを突き放すハルカ。すべてはかつて見た風景だ。
しかし、RE:TAKEでの人々は、「あなたの見たい世界」しか見る事は出来ない。友達のいない学生は、友達に囲まれる夢を見る。成績の悪い学生は、成績の良くなった夢を見る。
では、ハルカはどんな夢を見たのか。
魔界鍋奉行をはじめとするハルカの宿敵たちが次々に復活し、ハルカを糾弾する。
鍋奉行の甘い誘いを断り、現実に戻るハルカ。
しかし、少年は現実に戻れなかった。
自分がシーベリーとなった夢の中で、少年にとってはほかの学生が怪物に見える。それが彼の見たかった世界。ヒーローとして生きることができる世界だ。自分をシーベリーだと思い込んだ少年は学生たちに襲い掛かり、殺害。駆けつけたハルカをも殺すが、ハルカは少年に「戦え」とだけ言い残し、シーベリーの力を託す。
この物語は、素直に読めばシーベリーの交代劇だ。
道を誤った少年にとっては、命を燃やして他者に尽くすことで贖罪する、プロローグとしての物語。
戦いに疲れた戦士にとっては、次の世代に希望を託す、リレーの物語。
だが、どこまでが「見たい世界」なのかがわからないというこの物語の構造は、別の読み方も可能にする。
全ては、ハルカが見たかった世界なのではないか。
少年の存在は、ハルカが導き出した解なのではないか。
武蔵野ハルカの中には矛盾した二つの自分がいた。
戦いを終え、平和な世界の中でシーベリーであることをやめたい自分。
戦いをつづけ、英雄としての物語の中に永遠にいたい自分。
二つの自分に同時に決着をつけるには、物語を終わらせるしかなかった。良心に呵責のないやり方で。
道を誤った少年も、自己を糾弾するかつての仇敵たちも、ハルカの良心を慰めるために生み出された仮想現実だ。過去の罪に向き合い、受け止めた上で、少年を更正させる神として死ぬことで永遠に物語を呪縛する。それがハルカの願いだったのではなかろうか。
徹底的に武蔵野ハルカを苛め抜くことにより、徹底的に武蔵野ハルカに優しい世界を実現したのが、機動礼拝シーベリーRE:TAKEであると、現時点での私には思えるのだ。
見たい世界から脱却する? 確かに脱却する描写はある。しかし、そのプロセスこそがハルカが見たかった強い自己のイメージではなかろうか。ハルカは何を守りたかったのか。「ICUを守るのが私の使命だ!」ハルカならそう答えるだろう。だが、お前が本当に守りたいものは、そう宣言する自分自身ではないのか。
ヒーローとは呪いだ。無私を貫き、強く優しく、そして人々から見られるイメージ通りの存在でなければならない。アイデンティティを演じることによって自らのアイデンティティを作り出す。自分自身すらだましきるほどの強烈な自己演出。ヤコブ・ラズ(2002)が、日本のやくざ社会について述べている分析が、おそらくは光の世界のヒーローたちにも当てはまる。
人は見たい現実を見る。古くはウルトラQの異次元列車が、仮面ライダー龍騎(2002)では東条悟が、ウルトラマンガイア(1998)ではウクバールがそれを我々に教えてきた。我々は、そうではないと言えるだろうか。そうでないことにしたいだけではないだろうか。誰しもがウクバールに棲んでいる。
偏愛総進撃の最終回はこうして終わる。
PCの画面を閉じよう。そこには我々が見たい世界も、見たくない世界も、見なければいけない世界も、すべてが広がっている。この世界が存在すること自体が、生のヌーメンであるのだ。であるならばジャヴェルが飛び込んだ先はセーヌ川ではなく。