自覚がなかったけれど、高校生くらいまでは、ただぼんやりして時間を過ごすことが多かったようだ。その当時、家に帰った後や休みの日は何をしているの? と、人から聞かれても、何か具体的なことが思い出せるわけではなくて、返答に窮していたし、また、今になって当時のことを思い出そうとしても、たしかに何か特別なことをしていた記憶もなくて、なんだか真っ白なのだった。そうした事実をあわせて考えると、昔、わたしは、ただぼんやりしていることが多かったみたいだった。
おそらく、スマートフォンを手にして、また、人生の裁量労働である (と勝手に思っている) 研究を生業としたときから、状況は大きく変わったのだった。効率性と利便性を第一に考え、「スキマ時間」には、インターネットをしたり、ひとつでも多くの論文を読んだり。まるで、人生にベタベタ色を塗って、白いところが一切残らないようにしているみたいな。
それらのどちらが良いとか悪いとかいうことではなくて、現状そうなっているなら、まあそういうものなのでは、と思う。だけれども、ただぼんやりする時間は、わたしにとってなんだか大切なもののようで、研究者としての忙しい毎日を過ごす今でも、時間の余白を愛する心を感じることがある。
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たとえば、長い移動時間は苦にならない。
海外に出張するときは8時間以上飛行機に乗ったりするし、空港でも待ち時間がけっこうあるけれど、そうした時間をむしろわくわくした気持ちで待ち受けているところがある。どんどん溜まっていく読みたい本を吟味して、何冊かをカバンに詰めて、読むべき論文をプリントアウトして、ちょっと時間をかけて考えたいあれやこれやをリストアップして。
機内では、映画なんかの観られる画面は真っ先に電源を切って、ブランケットを脚に巻いて、用意してきた本や考えごとやお仕事を、のんびりと進める。疲れたら、ちょっと眠ったり、窓側の席のときにはぼんやり外を眺めたり、通路側の席のときには何をするでもなく立ち上がって通路を歩いてみたり。
電車で長距離を移動するのはもっと好きだ。ずっと窓が大きいし、あれこれ指図されずに自分のペースで息ができるし、駅ごとに人の入れ替わりがあるし、なにかと窮屈な飛行機に比べて開放感がある。地上を走っているから、人や動植物の息づかいを感じられて、仕事に疲れたら窓の外を眺めて飽きることがない。
並び立ったビルの隙間をたくさんの人が歩いていたり、もやのかかった山並みが遠くに見えたり、電線と電柱がびよんびよんと通り過ぎていったり。よく晴れた昼間には、窓から差し込む光が床やシートに落ちて暖かそうにしているし、雨の日には、水滴が窓にシュッシュッと模様を描く。夜中には、窓の外を通り過ぎていく灯りを眺めて、そこに暮らす人びとの別な人生を想像する。
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旅先の部屋というのも、けっこうすてきな場所だと思う。
住み慣れた家や、通い慣れた職場には、包み込まれるような安心感があるけれど、慣れないホテルや調査地の部屋には、ちょっとした緊張感がある。書籍やPCなどの仕事道具も万全ではないし、海外ではインターネットが遅いこともしばしばで、ときには停電があったりもする。けれど、そういう違和感や不便さが、かえってなんだか心地良い。
時間をめいっぱい有効活用して観光に行くのも良いけれど、わたしはそれより、宿の内部やまわりをふらふらと歩きまわって、その場所にある生活の空気を感じてみたくなる。歩くのに飽きたり、やらなければならないことが積み重なっていたりしたら、おとなしく部屋でお仕事をつづける。いつもとは違う場所で、なんだか新鮮な気分で作業を進められるのだった。小説家が保養地に長く投宿して、うんうんと文章を書いていた気持ちが、なんとなくわかるような気もしてくる。
長い行路を経て目的の宿について、受けとった鍵でドアを開けて、荷物を放り出して靴を脱いでベッドの上にどわーっと倒れ込んで、天井を見ながら、慣れない部屋でひとまずふぅと息をつくときが、わたしは特に大好きだ。最初は慣れなかった部屋も、何日か過ごすうちに、だんだん身体に馴染んでくるような気がしてくる。
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そして、わたしは歩くのもなんだか好きなのだった。
都心部で何駅か離れた場所に用事があって、時間にも余裕のあるとき、その1-2キロの距離を歩いてみることがしばしばある。本来わたしはそれなりの方向音痴なのだけれど、スマートフォンの地図のおかげで、ひどく迷うことがなくなった。こればかりは、文明の恩恵を目一杯に享受している。
毎日通っている職場からひと駅歩いただけで、初めて見る道を通り、ちょっとすてきな坂道を発見し、この建物はこんなところに建っていたのねと驚いたりすることになる。わたしが普段暮らしているエリアはごく狭いもので、実際に足で歩いて会得している場所なんて、街のなかのごくわずかな部分に限られるのだ、ということがよくわかる。
海外でも、治安がひどく悪くなければ、とりあえず歩く。よどんだ河の水の臭さに閉口したり、自動車の下の日陰で寝ている犬の横をこわごわ通り過ぎたり、屋台や市場を興味深くのぞきこんだり。見慣れない街路樹に見慣れない鳥がいて、猛スピードで走ってくる車の途切れる隙を探って道路を横切ったり。そうして長い道のりをたどって、目的地が見えてきたときには、ほっとするとともに、もう終わってしまったかと、ちょっとがっかりしたりもするのだった。
歩いているあいだは、陽の光や風の匂いをよく感じて、道端のささいなものにもよく気がつくような気がする。ヒトやモノを観察しながら、頭のなかではバックグラウンドで別な考えが走っていて、ふと新しいことを思いついたりもする。効率や速さの点では、自動車や電車に乗ったほうが良いけれど、歩くことには、時間の余白を鮮明に感じられる利点がある。
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考えてみると、いやいや、考えるまでもなく、アパートメントに書いている文章も、そうした時間の余白から生み出されているのだった。