少年は物書きになりたかった。
漠然とした夢に少し輪郭を加えると、物語を描きたかった。
小説をものにしたい。自分のつくる物語を世に出したい。
少年が人知れずに抱いていた展望だった。
夢を掲げるに至ったきっかけは分からない。分かるのは物心がついたころにはそう強く思っていたということ。
誰かに知られたら叶わないかもしれない。だから誰にも言わなかった。
一種の願い事のような、夜に目を閉じてみる類いの夢に近かった。
それでいて、彼はある程度の成功を信じていた。
スタートを切ろうとするその時まで。1歩目を踏み出そうとして、ふと疑問が浮かんだ。
物語を描いていたペンがいつか止まったらどうしよう。
何も生み出していないのに、どこかでやってくるかもしれない終わりを考えた。もし物語が枯渇したら、と。立ち止まったときのことを思うと不安でたまらないし、恐ろしかった。
そして少年はペンを捨てた。1度も握ることなく。
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極地を走るへんてこなランニングレースに出ていると、へんてこな状況や人にしばしば出くわす。
ワニの棲む川を知らずに進み続けていたり、勘違いで入国拒否されたことも。山で滑落しかけてロープにぶら下がり宙ぶらりんになったり、ジャガーの残り香を嗅ぎ分けるおじさんに出会ったり。
どれもなかなかに得難い経験である。それも物語の1コマのような内容ばかり。1歩間違えると悲劇になりそうなものもあるが、いまのところ喜劇なのでなによりだ。
ひとつひとつのエピソードを拾い集めていくと、極地を走ることもひとつの自己表現であると思えてくる。物語のように、レースはある方向(ほとんどの場合はゴール)に向かって話が進んでいく。違いは、ランナーが書き手も読み手も1人で引き受けていること。
他のランナーと並走することはあっても、その物語は自分だけのものだ。観客がいなくとも、物語は続く。
表彰台に上がることもあれば、ときには痛む足を引きずってトボトボと歩くこと、立ち止まり1歩も進めなくなることもある。
入賞、完走、リタイア。結果はどうあれ、走り出したからには自分の物語を完結させる必要がある。裏を返せば、スタートを切れば、何らかの結末を迎えることができる。
走り出す瞬間に、高揚感とともに不安を抱くことはある。
けれども、立ち止まったときのことだけを考えはしない。踏み出してみないと何も分からないのだ。
そして、いつまでも立ち止まったままではいられない。
止まったのなら先を目指して一歩を踏み出すか、リタイアするか。そのときに考えればいい。
つらいときは立ち止まればいい。けれど、立ち止まることを前提に考えることはない。
考えないといけないことはシンプルだ。
走りたいと思うのか、否か。それが全てだ。