旅に出よう
テントとシュラフの入った
ザックをしょい
ポケットには
一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう
出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい
春の雨の日がよい
萌え出でた若芽が
しっかりとぬれながら
そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく
(高野悦子「二十歳の原点」より)
学生闘争の時代を駆け抜けた二十歳の女学生が、
自殺する直前に綴った一篇の詩。その冒頭部分。
初めて読んだ時、中心をつらぬかれたような思いがした。
自死という事実をもって、この詩の印象を決めるのはあまりにたやすい。
だけど思う、「あやうさ」などという形容によって損なわれた感性が、
この世界には一体どれだけあるのだろう、と。
山や森などの人間の営みとは逆なほうへと足を運ぶ時、必ずこの詩のことが頭をよぎる。
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二年前、渋谷の会社で新卒として働いていた。
液晶画面と向かい合う日々に嫌気がさして、昼休みになるとよく会社を抜け出し、
近くの公園のベンチに座って目を閉じ、木々のさざめきを聴きながらぼんやりとしていた。
社員旅行で行った沖縄では、夜誰にも気づかれないようにホテルを抜け出して
海岸に置かれた小舟に上り、仰向けになって月を見つめていた。
広告をつくることを仕事の一部としていながら、
ある本で読んだ「広告されない美しさ」という言葉が
いつまでも頭を離れなかった。
そういう人間だった。
夏の終わり、ある森のなかで鹿のような一本の木と出会った。
そしてその頃から少しずつ、人生はどこか違う場所へと向かい始めたように思う。
木々を巡って森を歩くときは、必ず独りで行く。
奥深くへ分け入ると、自分が人間ではなく、
なにか別の生き物になったような錯覚を覚えることがある。
あるいは形すら持たないなにか、風のような存在へ。
そこに感情の起伏のようなものはほとんどない。
あてどない意識だけがそこに浮かんでいる。
いま生きているのだろうか。もう死んでいるのかもしれない。
そんなふうに考えたりする。
気がつくと、木々のかたちを前に立ち尽くしている。
そしてほとんど無感動のまま、写真を撮る。
そのようなことを、いつからか繰り返し続けている。
鹿のような木と出会ってから約半年後、勤めていた会社を辞めた。
ある種のまっとうさからは、もうはずれてしまったのかもしれない。
日々のことにあくせくしながら、いまは絵を描いている。
光だと信じられる、失いがたい実感のようなものがある。
それを手放さないようにと、日々どこかへ、何かへと祈るような気持ちでいる。
存在の祭りのなかへ向かっていきたいと絶えず思い続けている。
ひとりの盲(めし)いた生として。