古文|月の異名【居待月】
昨夜(3日)は、スーパームーンが師走の空に浮かんでいたらしい。
らしい、というのは、私は見ていないし、それを知らなかったし
今日になって、ネットニュースで知ったから。
日没後の18時台と、20時台に、車で移動していたので、
ビルの隙間とか、陸橋の上とか…自宅に近づいてからは山の上とか
どこかで視界に入っていたかもしれないけれど…。
スーパームーンねえ・・・。
大きく見える月はたしかに魅惑的だけれどしかし、
なんとなく「スーパームーン」という語感は、あまり好きじゃない。
ちょっと苦手なスピリチュアルな空気感とか、占星術とかの匂いとか
漫画家と出版社と代理店が一緒になって次々にグッズ作り始めるような(セーラームーンか!)…
そうだなあ、なんとなく、そう、「さやけさ」が無いんだな。語感に。
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「秋風にたなびく雲の絶え間より漏れ出づる月の影のさやけさ」
左京大夫顕輔(1090−1155)出典『新古今集』
[さやけさ|清く澄んでいること。明るくはっきりしていること。すがすがしいこと。]
(学研全訳古語辞典)
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私が通っていた県立の高校では、2年次に百人一首のかるた大会があって、
全員が百首の暗記に必死になるのだけれど、私がまっさきに覚えた歌が、この一首だった。
そして受験期に学んだ古文の中の「月」に関する古語では、なぜか「居待月」という呼称が好きだった。
三つ並んだ漢字の字面とか、古文の資料集とかに添えられた絵とか、
そんなところから、なんとなく気に入っていた古文単語だったと思うのだけれど、
大人になって、あらためて、古人の月の呼び方と、その由来を復習してみると、
「なんだかごめんなさい。暮らし方、生き方を恥じ入ります」という気持ちになる。(一瞬だけど)
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【居待月】いまちづき
新月から数えて9番目の月齢にあたる十六夜の月。
満月をすぎると月の出は遅くなり、立って待つには長すぎるので、居て(座って)待つ月、というのがその由来。
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立待月、寝待月、という古語もある。
古人は、月齢や空に昇る時刻によって、立って待つ月、居て待つ月、寝て待つ月、と表現したわけだ。
現代人の月との関わりは、と言うと、
残業帰りの歩道橋の上で「あ、三日月だ」とちらりを目をやり足早に階段を駆け下り、
インスタ映えするロケーションで撮られた写真をディスプレイ越しに見て(見せられて)
「あ、昨日は満月だったんだね」と、「受動的に」気づく対象であることが多い。
夜道を歩いていても、足を運ぶ足元の不確かさや、その時の気持ちまでもが月明かりに左右されることなど、
一生に一度、あるかないかだろう。
古人にとっては、日没は、月とともに過ごす時間の始まりであり、
月は、居て、立って、寝て、「能動的に」待つ対象だった。
西の空が赤く染まり、やがて月がのぼる時間……
私たちはカイシャの建物の中に居る。
あるいは、バーチャルなディスプレイに囲まれた時間に居る。
それとも、鬱陶しい、しがらみの中に居る?
その「さやけさ」に立ち会えない。
せめて、残業帰りの夜空に、月を探す習慣だけはつけていこうか。