その人を、神様だと思っていた
なんでも知っているようにみえた
歩むべき道を陽の光で照らしてくれた
僕を生み出してくれた
いまになって気が付くとは。全部間違いだったんだ。
なんにも知らない。
照らされた道は、いやに丁寧に舗装されていて、どうやら俺向きじゃあない。
あいつは、俺の精神まで造り上げようとしているのか。
そのことに気が付くのに、二十一年もかかってしまった。不幸というべきか、いや最悪だな。人生の四分の一ほどの時間を、誤った神への信仰に費やしてしまったのだから。
そうさ、あの女は神様なんかじゃなかったんだ。
崇める神を失う、なんてことは普通ないだろ?神は心の中にいて、不滅なのだから。だからそん時、どうすりゃいいかわからないんだ。他をあたるか?それとも、この真っ暗な海で泳ぎ続けるか、だ。
大聖堂近くの人通りの少ない広場。そこまでわざわざ歩いてきて石段に座りこむと、ヴィトはあたりを気にしながら、大事そうに小さなスチール缶を取り出して蓋をとった。汚れた濃緑色の葉を巻紙にあけて、タバコの葉を混ぜ込み、器用に丸めると、右手に握ったライターの打ち金をこする。植物くさい特有の香りが僕らを包む。試すように幾度か吸い込んだあと、僕によこす。センキューを言って親指と人差し指で挟み込み、たっぷりと吸い込む。目を瞑り、昂って、煙を吐き出す。
ブルゴスの街はすでに冬支度を始めていて、靴屋に行ってもサンダルは売ってなかった。どうして?と聞くと、そろそろ寒くなるもの、と店の女は返した。よく冷える街だ。建物からせり出したサンルームは、寒さを避けながら太陽を浴びるための、ひとつ、知恵らしい。
「今夜はデンカンとは別なのか」
「うん。巡礼宿じゃなくて、町外れの安宿に部屋をとったらしいよ。そこで彼女と一発、てわけ」
冷やかしながらも、どこか羨ましそうにヴィトは言った。さっき二人がキスを交わした時もそんな顔をしてたな。
「それは、まぁいいことだろうな」
「デンカンはここで巡礼をやめるからね」
「君もか?」
「いや、僕は続けるよ。寂しくなるね。一人で旅するの、あんまり好きじゃないよ」
「そうか」
ひと口、煙を吸う。ひげ面で、スパルタの戦士みたいな顔つきのヴィト。冷え込む北部スペインの秋風に対して彼が持ちうるのは、グレーのよれたパーカーと、孤独。
「まぁ、それでも一人旅も悪くはないぜ。なんせ自分の内面を問うことができるんだから」
「確かに、そうだね」
「おれの周りじゃ、人生なんてものを考えてるやつは少なかったよ」
「なるほど、ただ働いて、眠って、また働いては眠るんだね。」
「そう」
「ロボットみたくさ」
彼の瞳の奥を、鋭い光が走った。ウィードの煙が、確かに彼の脳を明晰にしているのだ。
「ハヤテ、アムステルダムに行ったことがある?」
「いや、ないけど、どうして?」
「あそこは、なんでもできる街だよ。とにかく何でも。ウィードも、クスリも。そんなとこなんだ。That is a place to be….」
「to be….なんだ?」
「…うまく、言えないよ。To be, to be….いやそれでいいか」
「あぁ、そういうことか」
「うん、place to be だよ。行くんだ、絶対」
ヴィトもそこへは行ったことがないという。もしアムステルダムへ行けばどうなるのだろう。彼は、何になるのだろう。どうやら、暗い海を泳いでいるのは俺ひとりというわけでもないらしい。少なくとも、狂った絵を描くこの男も。
To be, to be
そう、自分自身に。
夜も冷えてきた。そろそろ宿に帰るとしようか。