結構まじめに生きてきたほうだ。規則はあったら守るし、一般的によしとされていることを良いと思って生きてきた。なるべくなら周りの人に嫌な思いをさせないように、でもしっかりと、芯はブラさずにしていきたい。
そんなふうに過ごしてきた私は、社会人2年目の夏休みにカンボジアのトレンサップ村というところに滞在した。今まで海外の人にたくさんお世話になったんだもの、何か恩返しがしたいなぁと思って、小学校の英語と日本語教師のボランティア活動に参加したのだ。
到着初日に「明日が最終日」という女の子と話をした。
「子どもたちはすっごく可愛いけれど、みんなモノをねだってくるの。Tシャツとかタオルとか。多分今まで、ボランティアの人がいらなくなったものをみんなにあげてたんだと思うんだよね。でも、誰か1人にあげると他の人も欲しくなっちゃうだろうし、突然抱き着いてきて『タオル』とか言われると、すごく複雑だなぁと思うよ。」と女の子は言う。
その話を受けて、「日本人はよくモノをくれる」なんて間違ったことを思われてしまうのは良くないと、私の中のまじめがひょっこり顔をだし、心に小さな決意を抱えた。そしてボランティアが始まった。
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2~3日目経ったころ、コンキアという1人の男の子とよく話すようになった。
小学校の中学年クラスにいたコンキアは、ちょっとイタズラ好きのやんちゃな男の子だ。「虫が嫌い」と言った私に対して、手のひらくらいの蜘蛛をもって追いかけてきたり、弱いからやりたくないと言っているのに、腕相撲をおねだりしてきて圧勝して喜んだり。
今度は何をされるんだろうと少しおびえて接していたけれど、イタズラっ子以外の一面を見てから私は、毎日コンキアに話しかけるようになっていた。
この学校ではみんな、昼休みになると自分の家にお昼を食べに帰る。徒歩5分ほどのステイ先に帰って私もご飯を食べ、ハンモックでお昼寝してからまた登校するのが習慣だ。
ある日、お昼寝の時間を割いて授業の予習をしようと、少し早めに学校へ行ったことがあった。するとコンキアが教室で1人、壁に貼ってある「あいうえお表」を見ながら、1文字1文字紙に写していた。
「あいうえお、練習してるの?」
「そうです」
ちょっとぎこちないけれど、しっかりとした返事。あいうお表と手元の紙を交互に見つめ、ゆっくり、ゆっくり、1文字ももらさないように鉛筆を動かす。
コンキアの勉強風景を隣で見ているうちに、持ってきた指さし会話帳を思いだした。カバーが取り外しできるようになっていて、カバーの裏はあいうえおと、カンボジアの母国語・クメール語の対応表が書いてある。
「こっちには、クメール語も書いてあるよ」
そう言ってコンキアにカバーを渡すと、力強くゆっくりと動かしていた手を止めて、こちらを見た。カバーを手に取り、「おぉぉ」と小さく声を出して、じっと見つめる。
「これ、ほしいです」
コンキアが言う。いいよ、と私は返す。ありがとうございます、と続く。少し沈黙が続き、お昼ご飯を食べ終えた生徒が次々に教室へ入ってきた。私は予習をはじめる。コンキアはいつもの席に着く。
もっとあの子に役立つものは無いかなと、ステイ先に返って自分の荷物を見返したりもした。コンキアが私に「ほしいです」と言ってきたのは、あれが最初で最後なのに、あれ以来私は、彼に何かをあげたいな、と思っていた。
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コンキアは授業中、集中が切れて絵を描きだすこともあった。「ミホ」と言われて渡された紙は、私を描いたらしい似顔絵だったこともある。
日本語の授業では文章書き取りの時間もある。ある日、私が黒板に「勉強する」という単語を書いた。みんなが書けるか回っていると、コンキアはひまわりの絵を描いていた。
単語を書いてみて、と言うと「かけないです」と言って、こちらを見ずに絵を描き続ける。「一緒に書こう」と誘い、一筆づつ、コンキアの書くペースにあわせて私もノートに「勉強する」と書く。コンキアが書いたほうに赤ペンで花丸をつけて、その日の授業は終わった。
次の日も同じ授業があった。私は別の単語を黒板に書き、昨日と同じようにみんなが書けているか教室を回る。
「ミホ、ミホ」
コンキアの呼ぶ声が聞こえる。近づいてみると、「みてください」と言って、コンキアは一筆一筆確かめながら、真っ白な紙の上に「勉強」と書いてくれたのだった。
きっと昨日は、家に帰ってからもノートと鉛筆をとり出し練習したのだろう。漢字は特に難しいから、何回も何回も書いたと思う。もしかしたら、私が書いた字を見ながら、練習してくれたのかもしれない。
「嬉しい」で片づけてしまえばそれまでなんだけれど、それでは言い表しきれないような、なんだかすごく特別な思いがこみ上げてきて、でもなんと伝えて良いかわからなくて。私は紙いっぱいに、今までで一番大きい花丸を書いた。
その日の放課後、「また明日」と言って去ったコンキアの手元に目がいった。コンキアが通学で使っているカバンがビニール袋だったのだ。今までのボランティアの子があげたのだろう。本屋でもらうような、ちょうどノートが入るくらいの紺のビニール袋。それが彼の”通学カバン”だった。
いま私が使っているのは、大学4年生のペルー旅行で買った、ピンクの派手な布製ショルダーバッグ。旅行期間中ずっと使っていたら捨てるのが寂しくなって、日本に持って帰り、今回も使うことにしたのだ。
このバッグを彼にあげたいな、と思った。ピンクだけど、他にもいくつか色が混ざっているから女の子っぽさはそこまでない。けれど同時に、「カバンをあげることって、本当に彼にとって良いことなのかな」と不安にもなった。到着初日に話した女の子の話と、それを受けて思った私の決意が頭の中を駆け巡ったのだ。
*
ボランティア最後の日、プレゼントを狙う子たちが一斉に集まってくる。「最終日はみんな、小さなお菓子を配っているよ」という先達のアドバイスのもとみんなにお菓子を配るが、無くなっても「もっと、もっと」という子ども達に圧倒されて飲み込まれそうになった。
おねだりの波をすりぬけて、コンキアの教室に向かったら、彼はいつも通り紺色のビニール袋を持って教室から出てきた。手紙とも呼べない、「みほせんせい」と書かれた紙を私にくれたきりで、あとは何も言ってこない。
私はコンキアに、「一緒に写真を撮ろう」とお願いした。ちょっと照れくさそうに彼は写る。
バッグをあげるなら、このタイミングだ。
何も言わないコンキアに、ビニール袋よりもじょうぶでたくさん入るバッグを、このバッグをあげたい。
バッグは結局、今でも私の部屋でバックパックと一緒の場所に置かれている。
初日の女の子の言葉と、おねだりがうまくなった周りの子たちの目が気になって、結局わたしはバッグの話を出せずに「また会おうね」としか言えなかった。
私は教師でもなんでもないんだから。あの場で周りの子にブーイングをうけようと、今後のコンキアがどんなふうに変わっていこうと、誰に何を咎められることもないのに。
1回くらい、自分の気持ちに従ってモノをあげてもいいんじゃないか。今ならそう思って彼にバッグをあげられるけど、当時はそれがすごく勇気のいることだった。「別にいいじゃん」なんてふるまってしまうのはいけない事だと思っていた。
多分彼は今、高校生くらいだろうか。今もあのトレンサップ村にいるのか、それとも都市部の高校に通っているのだろうか。カンボジアの話をするたびに、一人でアジアに旅行するたびに、私は今でもコンキアのことを思いだす。バッグをあげなかったことを思いだす。
いつかまた会えたら、その時は彼にバッグをプレゼントしたいなと思う。多分彼はもう忘れてしまっているけれど、将来とか、まわりの目とか考えずに、「あげたいから」という気持ちを大事に動いても、いいんじゃないかと、今では思う。