久しぶりだね。
君に初めて会ったのは小学生の低学年のころ。その頃の僕は、犬を飼えることが嬉しすぎて、毎日犬種図鑑を読んでいて。今でも日本にいるほとんどの犬種は言えるよ。犬の図鑑を見ているだけで、甘い果汁の海の中でボートを浮かべているような幸せな気持ちになっていた。君には言っていなかったけど、君に会うまでは、脚が短くて耳の立った犬、コーギーを飼ってもらおうと思ってた。何度もお店に見に行ってたんだけど、相性の良さそうなやつに出会えなくて、その途中で、知り合いの家で君が生まれたということを知ったんだ。「キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル」って聞いて、名前が長すぎるなと思ったな。それでも生まれたばかりの君に会いに行って、お母さんの側ですやすやと眠るところを見て、あぁいいなぁと思った。全体的に黒くて、顔に白い縦のラインが入っていて、眉は茶色。玉のように小さくなって、眠ってた。それが初めての出会い。これから長い付き合いになる前のね。
家に来たばかりの君は、手が付けられないほどわがままで。その上、気が弱いものだから、何かにつけて吠えてた。家族にも、近所の人にも、遠くからのお客さんならそれはもう、声がブロック石になって飛んでくるかの勢いで吠えてたよ。まだ幼かった僕は、そんな言い分けのない君に辟易して冷たい態度をとっていたと思う。それでも、散歩にはよく一緒に行ったね。団地だったから、家々に囲まれたアスファルト道路を歩いて、大きなタイヤが二つ転がってる「タイヤ公園」という名前の公園に行った。藤の花のベンチに腰掛けて、ぼっとしてたのを覚えてる。その時に君がどうしていたのかは何にも覚えてないんだけどね。薄情だけど。
しばらくはこんな感じで、友だちになりきれないぐらいの距離感で過ごしていた。でも、ある日、これははっきりと覚えているんだけど、学校で悲しいことがあった日。短い人生の中でそれまで感じたことのなかった無力さを痛感した日。家に帰っても、自分の気持ちの行き場がなくて、誰とも話をしたくないし、でも一人でいたくもないし、でも干渉されるのはいやで。そんな時、階段を上る足音が聞こえてきて、少し空いた扉の隙間から君が入ってきた。「しょうがないから、側にいてあげるよ、僕はしゃべれないけど、それぐらいがちょうどいいでしょう」と話しているように大きな目でこちらを見て、僕の足元で小さくなって、横にいてくれた。僕は、君の細くて長い髪の毛をなでながら、一緒に小さくなって、寝た。目が覚めたときにはもう君は一階にいて、夜ご飯を用意するお母さんのおこぼれを狙っていた。そんな君が妙におかしくって、声に出して笑ったんだ。
それから僕は18歳になって、大学進学とともに家を出た。年に数回、夏休みや正月に戻ることがあったけど、君は相変わらずで。喜ぶわけでもなく、鬱陶しがるわけでもなく、いつもの通りに、昨日会ったばかりのようにそこに居た。人間は見た目とともに年齢がある程度推測できるけど、特に君の場合は全く分からなかった。あの時、もういい歳だったんだね。
君がいなくなったのは、それから2年後の夏。調子が悪くなった君は病院にいて、僕はおばあちゃんの家にいた。病院の先生から電話がかかってきて、これ以上は生きられない、もう長くない、早く来てください、と言う。今すぐ迎えに行こうと車に乗り、1時間かけて病院に向かった。その途中、あと少しというところで渋滞にはまってしまった。すると、お母さんが星が見えるという。僕にも同じ星が見えた。星はこっちに向かって光っていた。僕らを見ていた。車の中では「夏の終わり」が流れている。病院に着くと、君はもう冷たくなっていて、お母さんは君の元に走っていって、身体をさすっていた。僕は泣いてはいけないと思った。絶対に泣いてはいけない。病院の先生にお礼を言い、君を家に運んだ。君に毛布をかけ、お母さんは側で眠るという。僕は自分の部屋で寝ることにした。リビングを出た途端、我慢していたものが溢れた。その夜は、家族の全員が君のことを、君が、君との想い出は全て最高だったんだ、と思いながら過ごしたんだと思う。翌朝は、不思議と清々しかった。君を車に乗せて、火葬場に連れて行き、さようならをした。煙が上がるところを確認して、家に戻った。君のいない家は、がらんとしていて全く別の家になっていた。
あれからもう10年以上が経つね。僕も、お母さんも元気でやっているよ。お母さんはあの頃と変わらず元気で、家に帰るといつも大好きな味ご飯とコロッケを作ってくれる。君が好きな食べ物は何だったっけ。何でも喜ぶわけじゃなくて「これは違う」とはっきりしてたよね。
また会いたいな。
では。