東京を出て京都に住むと決めたとき、なかでも嵐山という場所を選んだのは、ほとんど衝動的な選択だったように思う。
転職予定だった勤め先へのアクセスがどうかとか、想定していた家賃の範囲で希望するような生活ができそうかとか、チェックポイントはいくつかあった。それでも、その頃のわたしはとにかく、長年生活した場所から逃げてゆっくり休むことを望んでいた。
最近ようやく正直に話せるようになってきたけれど、引っ越すことになったいちばん大きな理由は男と揉めたためだった。それが嵩じて、大好きだった会社も辞めることになった。
5年勤めた会社を辞めたとき、わたしには何もない、と思った。
日々誇りを持って取り組んでいた仕事は、少し特殊な性質の仕事で、他の会社で同じような業務に就くことは難しいように思われた。
何もないわたしが東京を歩くと、情報の多さや、行き交う人の量に押し潰されてしまいそうな気がした。
当時はいろんなことがあって、わたしもわたしの男も精神的にぼろぼろになっていた。
あまり積極的に物が食べられなくなってしまったわたしの家まで男が来てくれて、よく一緒に近所の蕎麦屋で蕎麦を食べた。
少し遠出ができるようになった頃、わたしは東京を出ようと思っていることを男に告げた。男は、重い口調で一言「考え直せ」と言った。わたしは答えずに、六本木のカフェに男を置いて一人で帰った。男のことをまだとても好きだった。
六本木から当時住んでいた家までは、大江戸線で一本で帰ることができた。東京でいちばん深い地下鉄の階段を下りながら、人生を変えよう、とはっきり思った。
嵐山には何もない。
こんなことを言うと、京都の人に怒られてしまうだろうか。
もちろん、観光地として知られる嵐山には、世界文化遺産に指定された名刹もあれば、立派な仲見世通りもある。JRを使えば京都駅までたった6駅で出られるし、阪急や、風情ある路面電車だって通っている。
それでも、嵐山という場所では、人間の手によって作られたものはどことなく影が薄い。
強烈な存在感を放っているのは、桂川という大きな川と、小倉山に嵐山、そして遠くに見える愛宕山などの、暗い森を湛えた山々だけだ。そして、そういうところこそが嵐山の魅力だとわたしは思う。
例えば長野の山中や香川の離れ小島よりも、嵐山にある自然の風景はもっと雄大で、さみしい感じがする。
本当に疲れて、掌の中に何もないとき、そういうものにこそ人間は癒される。そのことを、わたしは31歳になって初めて知った。
嵐山に住んでいた2年の間、桂川を眺めるためによく渡月橋のあたりまで散歩に出た。
自宅から歩いて7分程度のところに桂川はあった。晴れた日は水面がきらきらとして綺麗だったし、夜にはまるで夜の海のような、そこはかとない恐ろしさを感じた。
園部や亀岡などの、京都の山あいを通って流れる桂川は、平安時代の頃から都を支えてきた川でもある。
台風や大雨の翌日には、ごうごうとうなりをあげて川が流れるのを聴いた。その音の大きさは、桂川の果たす役割の大きさを否が応でも想像させた。
川の上流にはダムがあり、ダムを建設するために沈んだまちもあった。わたしはたびたび、桂川のほとりで寝転びながら、何をすることもなく、ただ川の周辺の地域に住む、さまざまな人の生活と人生を思った。
桂川のほとりに、「よしむら」という美味しい蕎麦屋がある。渡月橋にも近いこの店は、いつ来ても観光客で賑わっている。
京都らしい落ち着いた設えの店内で、りっぱな穴子の天麩羅が乗ったお蕎麦をいただく。
東京の片隅でかけそばを食べていた頃から、ずいぶんと時間が経った。かつて男と毎日のように通った近所の蕎麦屋は、わたしが東京を離れている間に店を閉めてしまったらしい。
嵐山の駅周辺を含む地域一帯は嵯峨野とよばれるが、なかでも奥嵯峨とよばれる北側の一部は化野(あだしの)と言って、かつては風葬の地、時代が下ってからも大規模な火葬場だった場所だ。
駅前こそ観光客で溢れているけれど、この地から雄大かつさみしい印象を受けるのは、理由のないことではないのだろう。
渡月橋から北進して化野に向かう道すがら、お豆腐屋さんの「嵯峨豆腐 森嘉」に立ち寄る。京都は水がよいと言われるが、お出汁やお豆腐がこれだけ美味しいのも水がよいからだと思う。
関東ではがんもどきとよばれる飛竜頭(ひろうす)を買って、歩きながら食べる。こちらでは飛竜頭は一種のファストフードだ。あつあつ揚げたてのお豆腐のなかに、ごぼうや百合根、銀杏のしっかりとした歯ごたえ。いつ食べても絶品だと思う。
東京に帰っても、森嘉のお豆腐のことはきっと懐かしく思うだろう。食いしんぼうに生まれてよかった。
森嘉を過ぎて北西に進むと、祇王寺というお寺がある。
平家物語にも登場する悲恋の尼寺として知られ、昭和の時代からは、かつて新橋の人気芸者だった照葉(高岡智照)が庵主となったことで、傷ついた女性たちの心のよりどころになったという。
これもわたしは引っ越してから知ったことだった。
「東京の人はまあ、嵐山なんか好きやねぇ」
と苦笑する京都の人達を素知らぬ顔でやりすごしていた頃、たった一人
「汐月さん、もしかして異性関係で何かあった?」
と聞いてきた人がいた。
その人が、嵯峨野のことや祇王寺のことを後に教えてくれたのだ。
分かる人には分かるし、場所は静かに人を呼ぶ。
祇王寺を過ぎてさらに北に進んでいくと、標高が上がってくるのか、急に気温が涼しく感じられた。
高岡智照については、その人生の波瀾万丈ぶりにおいて彼女と共通点の多い瀬戸内寂聴さんが『女徳』というモデル小説を描いている。
そして寂聴さんご本人も、曼荼羅山 寂庵(まんだらさん じゃくあん)というお寺を嵯峨野に開いている。
わたし自身は出家することもなく、2年間を嵐山でただ漫然と暮らし、大阪に移り、そして最終的に東京に帰ることを選んだ。
それでも、人の一生には、驚くほどいろんなことが起こる。
他人に言えないこと、公には書けないようなこともたくさん起こる。
そういうときにただそっと、住むと言うよりも棲むことを許してくれた場所として、わたしは嵯峨野に出会えてよかったと思っている。
何もかもを捨てたくなったときに訪れたい景色がわたしのなかにあることで、わたしは今日も生きることができているのだと思う。