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2F/当番ノート

「ハンガリー語を通してハンガリーと向き合う」

当番ノート 第43期

なぜ、ハンガリーへ留学してから6年目にして、ハンガリー語学学校へ通っているのか?

語学勉強を甘く見ていたのかもしれない。リスト音楽院に在籍していた4年間、何もしていなかったわけではない。リスト音楽院にはありがたいことに、日本人の先生が日本語でハンガリー語を教えてくれる90分のクラスが週に2回ある。私も用事が無い限り、その授業に積極的に参加した。とても分かりやすく、ハンガリー語の勉強の導入として最適だったと思う。だが、私にとっては、その授業に参加することでハンガリー語を勉強している気になり、安心してしまった。

音楽留学をするのなら、留学先の言語を修得してから行動に移した方が良い。語学レベルのB2でよい、1年間でよい。みっちり頭に叩きこんでから、留学しても遅くはない。
 
留学は通常2年から5年、留学先の学校に籍を置き、先生に師事をする。もしくは学校へは在籍せず、プライベートでレッスンを受ける事が一般的である。大学に籍を置くのなら学部生で全課程を修了するまでに5年、大学院からでも2年必要である。その2年から5年の時を、師事したい先生と、お互い母国語ではない英語でコミュニケーションを取ることを想像してもらいたい。「良い・悪い」、「遅い・早い」等、お互いの意志が伝わりやすい言葉で終始してしまう可能性がある。先生方は母国語でしか伝えられないような、ニュアンス・表現などを沢山知っているし、私達留学生もその微妙な違いや、音楽の表現の違いが知りたくて留学しているようなものである。

プッチーニ作曲の日本を舞台にしたオペラ「蝶々夫人」を、ハンガリーのオペラ座で鑑賞したことがある。その中である女性が傘を差す場面があるのだが、傘を肩にかける、その傾き加減こそニュアンスなのだな、と思ったことがある。傘の傾き加減ひとつで、その女性が元気なのか、悩んでいるのか、意を決しているのか、見て取ることが出来る。私達音楽家は、音と時間を媒体として、音楽の内面を聞いている人達に伝えていくのが仕事である。

ヘレン・ケラーがサリヴァン先生とのやり取りの中で「水」を「W・A・T・E・R」と気づくことができたからこそ、すべての物に名前が存在するということを理解したように、私たちも先生が伝えたい事を、音を通じて、言葉を通じて、全神経を使って「気づく」ことが大切なのだ。

ただ何年間有名な先生のレッスンを受けた、大学院の卒業証書を受け取ったことが留学生活の大切なことではない。これから5年後、10年後、音楽家として生き残っていくために、先人から学んで、気づいて、更に新しきことに挑戦していかなければならない。

クラシック音楽はバッハ・ベートーヴェンの一時代にピークを迎えた文化である、と学校で習うかもしれないが、私はそうは思わない。現代に生きる作曲家たちが、先人よりも更に新しいものを創造しようと、日々霊感を研ぎ澄まして生活していると信じている。

まとめると、私自身の経験として、留学して4年が経った頃、がむしゃらに大学院まで修了したが、ふと我に返った時、自分自身の語学勉強の至らなさを、何よりも痛感した。だからこそ、やり残したことではないのだが、ハンガリー語を習得して更にハンガリーの音楽やバルトークに近づきたいのである。

ハンガリー語無しでは、これ以上ハンガリーに近づけないのだ。そしてハンガリー語で心の奥底からコミュニケーションをとってみたい。

私は今、ハンガリー語を習得するために、平日の午前中は語学学校へ通い、それとは別に3人の日本語を学ぶハンガリー人学生達とタンデム学習を行っている。タンデム学習では、母語の異なる2人がペアになり,互いの得意な言語や文化を学びあうという学習形態で、60分~90分、曜日と時間を決めて定期的にカフェなどで会い、私が日本語を教え、彼らからハンガリー語を教わり、お互いの文化を共有していく。(現状は私が一方的にハンガリー語を教わっているような気がする…)

毎週月曜日は、日本語とハンガリー語を使って、互いの国の価値観について語りあってくれるNikoさん、毎週木曜日は、主に学校のテキストでわからない所を重点的に教えてくれるLiliさん(それだけでなくハンガリーの代表的なスイーツ・パラチンタの作り方やハンガリーの民族舞踊についても教えてくれる)、そして語学学校では毎日沢山の宿題がでるのだが、ひとりではさっぱりわからない。そんな時、Heniさんがインターネット電話で宿題の手伝いをしてくれている…!単に語学を勉強するだけでなく、お互いの文化や考え方、言語の深層に触れることができていると思う。そして彼らは皆、日本が大好きである。日本語だけでなく、日本の文化・文学・歴史などに興味を持ち、近い将来日本へ留学する機会を持つ未来を描いている。

日本人は古くから震災と共に生活を営んできた。

東北大震災から7年が経った。当時、私は千葉の九十九里浜の近い私立の高等学校に勤めていた。指揮者を志し、上野学園大学の指揮研究科の入学試験まであと1週間ほどであったと思う。震災のあったその日は午後からの出勤で、実家のある習志野市から車で京葉道路(高速道路)に乗る直前であった。あの地震の感触は今でも忘れることができない。マンションがこんにゃくのように揺れた。私もまた、この異常事態に車のハザードを点灯し、路肩近くに車を寄せラジオをつけた。「沿岸部にお住まいの方はすぐに非難してください」。

実家に住む母に電話をかけたがつながらない。私はひとまず習志野へ引き返した。母の無事を確認し、テレビをつけ、余震に驚き、怯え、現状を把握しようと心がけた。

上野学園の入学試験を終えた翌日からは、津波被害を受けた千葉県銚子市へ赴き、九十九里沿岸部のがれき処理のボランティアに参加した。町中の塀や壁に、くっきりと津波の高さが残されていた。住民たちの絶望に暮れた顔を忘れることができない。
 
私は東北の震災のことや、それに伴った原子力発電の事故、僕自身が経験したことを、タンデム学習を共にしている日本が大好きな彼らにも伝えることができたらと思っている。日本の良い所も、そして日本の社会の抱えている問題も含めて受けとめてもらえた上で、日本を見つめてもらいたい。

さて、語学を勉強する上で最高の環境が整った(整いすぎだ)。僕の中では、語学習得のための期間は3年と決めた。その後にまだやりたいことが沢山あるからだ。今から約10年後、50歳の時になりたい自分に少しでも近づけることが出来るよう、一日一日を大切に生きたい。

原口 祥司

原口 祥司

指揮者
上野学園大学指揮研究コース、リスト音楽院大学院オーケストラ指揮科修了
ハンガリー・ブダペスト在住

Reviewed by
宮下 玲

「ハンガリー語無しでは、これ以上ハンガリーに近づけないのだ」。
どこまでも、どこまでも、終わらない探求。
原口さんの、貫ぬくようにまっすぐな言葉に、毎週少しずつ馬力をもらっています。

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