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2F/当番ノート

吹奏楽と私

当番ノート 第43期

今回は、吹奏楽についてふれてみたいと思う。

私が吹奏楽と出会ったのは、中学1年生の頃。
幼少期から父と行くプロ野球観戦が大好きで、父に肩車をしてもらって後楽園球場に巨人戦を見に行った。父は根っからの野球好きで、休日は草野球や少年野球の代表などをやっていた。家には野球の試合の際に使われるスコアブックがいくつも置いてあり、玄関にはゴルフバッグとともに野球バッグもでかでかと並び、当時子どもであった私には、それらはとても大きく重たく感じられた。

プロ野球観戦の際、私は次第に応援席で鳴るトランペットに憧れ、中学生になったら野球部か、もしくは吹奏楽でトランペットをやろうと決めていた。家族と相談をし、兄からの「今から始めるなら、野球より音楽の方が良い」というアドヴァイスを受け、吹奏楽部に入部。
中学の吹奏楽部の志望動機には「甲子園でトランペットを吹きたいから」と記入した。希望楽器は第1希望から第3希望まで欄があり、いずれの欄にも「トランペット」「とらんぺっと」「虎んぺっと」と記入、すると顧問の鈴木先生と担任の岡野先生に職員室に呼ばれ、「中学校では甲子園に行けないけれど、それでも入部する?男子部員は原口君ひとりだけだけど大丈夫?」と聞かれたことをよく覚えている。
吹奏楽部に入部してもクラシック音楽とは縁が遠く、家にいる時は、兄が聞いていたZIGGYやBOØWYなどのロック音楽、そして尾崎豊やビートルズを毎日聴いていた。
中学卒業時までには、少しはクラシック音楽にも興味を持ち始めていたが、いつの間にか完全に「吹奏楽」の虜になってしまっていた。

そして、「甲子園でトランペットを吹きたい」という希望も捨てず(?)、地元の習志野市立習志野高校へ進学。
習志野高校は今も昔も変わらぬ部活学校である。脳みそも筋肉ムキムキなのではないかと思うほど、図体の大きい運動部の学生達と共に高校生活を送った。学校の座右の銘は「雑草の如く逞しく」、事あるごとにこの言葉をよく耳にした。
当時は各学年に40~50名程度の吹奏楽部員が在籍し、全学年で120名程度の大所帯のクラブ活動で、常に団体行動に重きを置き、練習量も去ることながら生活態度を最重視する部活動であった。
良き思い出は高校1年生の頃、先輩方と部活動の終了後に東京都の江戸川まで(習志野からは決して近くない…!)楽器を夜中まで吹きに行き、楽器の練習方法などを教わった。ちょっとした悪ふざけも教わった。

高校野球に匹敵するくらい吹奏楽の夏のコンクールは異常に盛り上がる。全国大会の演奏はCDやDVDでも発売され、吹奏楽産業も成り立っている。吹奏楽コンクールは、小・中・高のクラブ活動にとどまらず、大学・一般・職場の部まで展開されている。海外から見た日本の吹奏楽という文化は、独特な世界観を持っていると思う。

私は中学生から吹奏楽を始め、高校・大学、そして社会人になっても吹奏楽の活動をアマチュアで続け、10年間の高校教諭の間も吹奏楽の顧問を務めた、言わば完全な「吹奏楽っ子」である。10代から30代までの約20年間、吹奏楽と共に人生を歩んできた。
吹奏楽は先述したように、コンクールを中心にして活動されることが多いため、コンクールで結果が残ると、自分達の活動が周りに認められていると勘違いしやすい。本来、音楽に結果なんか無い。
私自身も、教員時代は1年365日毎日学校へ行き、朝7:00の鍵開けから午前様の0:00を回って学校の鍵を閉め、帰宅するのが常であった、ただの気違い先生だった。
その生活を10年間続けて、身に着けたものは「根性」だった。
「根性」だけでも身に着けられれば立派であるがしかし、「根性」だけでは音楽はできない。明白である。

そんな自分だからこそ、いつの日か吹奏楽について何か話すことができるのではないかと思っている。

幼少期から音楽を専門的に学び、音楽大学を卒業しても音楽家として歩んでいくことが簡単ではない今の世の中である。吹奏楽で音楽と出会い、音楽の基礎や専門的な知識の浅い「吹奏楽っ子」ことこの私が、音楽家として、そして芸術家として活動していくことの大変さを、そしてそれを打開するためにもがく様を、学校や社会人などのアマチュアの吹奏楽団を指導している人々にも見ていただきたい。

もう教員生活に戻ることはないと思っているが、今、私が吹奏楽の指導者方に申し上げたいことは以下の通りである。
学生の感受性だけを大切にすれば良い。ただただ、楽しいだけで良い。
音楽は比べるものではない、その人にしかできない音楽を追求していってもらいたい。
音楽に出会うきっかけさえ作れれば、楽しささえ伝えられれば、指導者の役割は達成されている。
そして「吹奏楽っ子」は、一度吹奏楽の外に出て、他の景色も味わってみてほしい。

根っからの「吹奏楽っ子」であった私が、このような考えに至ったという事を伝えることは、決して悪いことではないと思う。

明治維新から150余年、文明開化の音がして、西洋音楽が海を渡って日本に到着してからまだ150年しか経っていない。これから更に150年くらい経過して、きっと日本のオーケストラや吹奏楽団、合唱団の音も年輪を増し、そして経験を重ねたオーケストラ達が、作曲家や指揮者を育てる時代がやって来ると思う。そして多くの音楽家の中から、時々、お客さんの心を惹きつける音楽家が輩出される。そのくらい、ゆっくりとした時の流れとともにヨーロッパの音楽は成長を遂げてきた。

いつの日か、バッハやモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスの生まれ変わりが日本で現われるように、私達は絶えず音楽の畑を耕し、沢山の種を蒔かなければならない。

原口 祥司

原口 祥司

指揮者
上野学園大学指揮研究コース、リスト音楽院大学院オーケストラ指揮科修了
ハンガリー・ブダペスト在住

Reviewed by
宮下 玲

ヨーロッパでクラシック音楽を学ぶも、もともとは部員として、教員として、20年間ずっと吹奏楽に打ち込んできた原口さん。
「吹奏楽っ子」だからこそ、今、伝えたいメッセージがあります。

「ゆっくりした時の流れ」のなかで、「音楽の畑」を耕す・・・彼が見つけた言葉に、ぜひ触れてみてください。

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