よく人から、あなたは優しいよねとか、いい人だよね、なんて言われる人っていると思うんだけど、よくよく世の中に生まれてきた人間って、大人になると大体の人間が「優しくできる」と思うんです。
ただ、優しさといっても「優しい人」と「優しくできる人」ってちょっと違うような気がずっとずっとしてて。だから人と出会い 話し合う時、相手が「根っから優しい人」なのか「ただ優しくできる人」なのかをふと考えてしまう癖がある。そんな馬鹿げた事考えてないで、やる事やれって話なんだけど。癖なんで 許して。
人として生きる上で、幼少期から「意地悪してはいけません 相手に優しくしてあげなさい」みたいな事を、何処かしらのタイミングで教育され自覚しつつ、1つのお菓子を相手に半分あげようとする思いやりと、自分だけが独り占めしたい傲慢さの両方を持ち合わせて大人になっていく。でも子供の頃のその行動というのは、きっと計算も、したたかさも 建前も ないものだったはずで。だけど大人になると 当時の傲慢いじわるジャイアンだったあの子も「優しくできる」人には一応なれていたりする。
「後天性でつちかった建前だけの優しさは、目に見えて優しいのよ。根底が優しい人は決してひけらかさないから、意外に後々その人の優しさに気づくのよね」
昔、親愛なるママンがいつかの新宿での夜、私に話してくれた言葉が、想像以上に心の奥にシコリとして残っていて、良くも悪くも幸いにも良性のソレが、今更疼きだしてしまった。
とは言え、根がどうであれ優しくできるってだけでもいい事だし、それすら出来ない人間も存在するかも知れない。それに大人になるとモテたい願望も相まって、男性ならば紳士的に女性に接していれば、優しい人という印象を与える事は出来るだろうし、恩着せがましさ一歩手前の気遣いができる女性は、男性に優しい人だと思わせる事も容易いかも知れない。
じゃあ、優しい って何を持って定義するの?みたいな事になると、結局私は答えを出せない未熟者で、そんな私自身が大人になって社会に出て世を渡っていく過程で、清く 正しく 美しく ありたいが故に、どんどんあざとくなっていって、自分が「優しい人」である前に、心の底にある傲慢な腹黒さを隠す為の「優しくできる」手段を沢山知って実行してきただけかも知れなくて。
結局それは自分都合でしかなく、当然ながらそこから本当の優しさは生まれてはいなかっただろう。そんな風に考え出したら、自分は優しい人ではなく、優しくできるだけの人間なんじゃ…と自己嫌悪に浸ると同時に、ふとある人の笑顔が思い出され、全てを思い出し切る前でもうどうしようもなくて、泣いてしまった。
私がお世話になったその人は、この世にはもういないのだけれど、いつだって自己犠牲の中で無意識に生まれる優しさを持ってる人だった。
あの日 2人で買い物に出かけ、両手に沢山の荷物を抱えて帰る途中、梅雨の気まぐれを呪う程の豪雨に見舞われ、近くの小料理屋のひさしで雨宿りをした時、たまたま横の細い路地の隙間に仔猫を見つけて、私は自分の荷物そっちのけで、その仔猫を拾い上げてみせた。そして彼に、この仔をほっておけないから連れて帰ると言い張って、それはもう大事に大事にその仔猫を抱きしめ、少し小降りになった雨を見計らって小走りしながら家に戻り、幼くか弱いその仔猫を見つめながら、自分が持ち合わせてる母性全て使って救ったんだ!という正義感と優しさに、どっぷり自己満足していた。
けれどあの時
彼が、その一部始終の私の突発的で、興奮ぎみな感情を、呆れず突き放さず受け入れてくれた事、私が仔猫を抱きしめ守る事にしか気持ちがいかず、すっかりそっちのけにした5kg近い買い物の荷物を、彼が自分の荷物と一緒に文句も垂れず辛抱強く抱えて帰ってくれた事、自分が羽織っていた上着を頭から被せてくれて、両手が塞がった私と胸に抱いた小さな仔猫を雨から守ってくれた事、家に着くと彼自身が1番びしょ濡れなのに、震えていた仔猫をタオルで包み、私の濡れた前髪を見て、大丈夫か?と笑ってくれた事。
その全ての優しさがあったからこそなんだよなと。
私が仔猫のために優しくしたいと思ったソレは、彼の優しさ無しでは成り立っていなかった。彼は直接仔猫を救った訳じゃないし、誰に褒められる事もなかったけど、あの時私が仔猫を救えたのは
彼が
「優しくできる」だけの人じゃなく
根っから「優しい人」だったから。
だと思うのです。