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2F/当番ノート

夜の道端で

当番ノート 第45期

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不思議なんだけれど、大人には何故か 妙な高さへの拘りがある気がする。例えばそれは、マンションに住むなら高い階がいいとか、ドレスを着る時はハイヒールじゃないと自意識が萎えるとか、高層ビルにある会社に勤めているから鼻が高いみたいな 「高い」に越したことはないという変な拘り。

まってまって。

確かにマンションの最上階に住んでれば自慢になるだろうし、10cmヒールを履けば、頭身も脚の長さも見栄えが良くなって気分がいいだろう。それに身長だって高い方がもれなくモテるし、食事をするのも高い場所の洒落た店は景色がいいと予約が絶えない。はず。

勿論その辺の意見に全く異議はないし、私自身が「ソレ」に憧れてきたはずで、社会人になってからはより「ソレ」を好んでいた自分も確かに存在していた。
だけどその自分の高望み願望と見栄っ張りって、結局は自分を見失うきっかけだったし、生きづらさに拍車をかけていただけかもなと思う。
そうやって20代の頃の自分なんかを今思い返すと、何かと残念な自分が顔を出す。
でも、今それをちゃんと滑稽だったと苦笑できる自分をまあまあ好きになれているなら、歳をとって逆によかったな なんて都合よく思っておこう。

思い起こせば、子供の頃って当然等身大で生きるしか手段が分からず、年齢以上にも年齢以下にもまやかせなくて、自分が今見ている視界が全てだったから、嘘っ気のない感受性を持てたのかも知れなくて。幼かった子供の頃は、例えば自分を大きく見せようと無理に背伸びをしてつま先立てば、ちゃんと不器用にヨロけてコケた。だからこそ高いモノにも場所にも景色にもただ素直に憧れて 憧れて、真っ直ぐ上を見据えて歩いてこれたし、人間とか世の中を見おろす事もましてや見下す理由も要らなかったから、わざわざ最上階の高級なレストランで外食をしなくても、遊びきって帰ったお家で食べる何でもない夕飯だって充分に美味しくて、嬉しくて、暖かかったから 安心して。

それに多感な時期になると、高い場所どころかむしろ街中や公園 砂浜へ行く度、決まり事のように地べたに座って、当時の友達と実に下らない だけど最高に面白い無駄なお喋りを延々とした。勿論「ソコ」でお互いの身長差とか、厚底の高さを張り合う必要もなく、コンビニでお気に入りの 質より量 みたいなお菓子と1番安いお茶を買って、公園の隅にある階段にしゃがみこみを決め込む。すると自分の視界より高い場所で起きている事から孤立しているような、今の流行りや廃りから追放されちゃったような不思議な感覚になるのがいつも好きだった。例えそれでお尻が汚れてしまうとしても、払えばいいじゃないと思えるあなたも私も大切だった。

そして私は、そんな事を思い起こすようになった日から、大人になった今もあの頃の居心地の良さが欲しくて、高い場所より無性に地べたを求めてしまう時がある。嫌でも大人になってしまった今だから求める、道端に座る良さみたいなもの。

なんもかんもが疲れてしまった日は、コンビニで缶ビールを買って、街中のどこにでもある花壇みたいなあえて低い位置から、そのなんもかんもを眺めてみる。そうすると自分の視界より上にある世の中の速さに、少しだけ自分が置いてけぼりをくらっているような感覚になるそれが、もう本当に心地よい。
勿論たまには何処かの夜景が綺麗なBARにでも入って一杯飲むのもいいけど、カウンター独特の沈黙を煮詰めたような空気が今日はちょっと苦しいなんて思えちゃう日は、間違いなくダサ疲れている自分だから、洒落た場所で気取ってる場合ではない。いっそ道端のどこかに1人ほてっと座って缶ビールを片手に何もかもがスピード勝負みたいなこの街を見上げる事をおススメしたい。1人、なんのしがらみもなく気分が緩んで、お酒が今日も誰にも見せなかった寂しさをちゃんと扱いやすいものにしてくれる頃にはおうちに着くから。

そうだ、退屈な梅雨が明けたら一緒に道端でどう?

約束ね。

花

東京生まれ東京育ち。言葉はナマモノなので美味しい味付けはしてありません。

Reviewed by
落 雅季子

視点の高さを操作するだけで、時間軸をぴょんと跳ぶ軽やかなエッセイ。幼いあの日、そして若すぎた夜を越え、大人になって迎える夕暮れは美しい。夏の匂いを感じながら、言葉よりも先に、まず乾杯を交わすんだ。大人になるのは、いいことよ。生えるはずだった翼のなごりの肩甲骨を、コンクリートに押し当てて、生ぬるいビールをあなたと飲めるからね。

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