彼女との出会いは不思議なものだった。去年の暑い日、予報を裏切る小雨。私はついさっきまで 無機質な関係の相手と、いつもの場所で、いつもの事を終え帰るだけの平日の夜を過ごした後、決まって立ち寄るいつもの店で、いつものカフェオレを頼んで、いつもの曲で耳を塞ぎ、いつもの席で儀式みたいにボーッとしていた。全ていつも通りだった。
時、
バタバタと誰かが店に入ってきてビールをカウンターで頼み、スタッフから奪い取るみたいにグラスを掴んで、店の1番隅のカウンター席に座る私の隣の隣の隣の椅子にドサッと座った。と同時に、喉仏がドクドク上下する程 勢い良くビールを飲みだす。私はイヤフォンをして窓から外をボーッと見ているこの時間を、誰にも邪魔されたくなかったし、何事もなくとぼけてみせたのに、そのポーズは5分と持たなかった。私がその彼女をちゃんと見るまでもなく感じた、ただならぬ予感。悲しみと美しいさを纏う人間の空気と、なんともいえない体温を含んだ人工的な甘い匂いが、隣の隣の隣の私に小々波みたいに届いて、私のただの1日の終わりをかき乱し、全く遠慮がなかった。
そして気持ちとは裏腹に、できるだけ煙たそうに彼女に向かって視界を向けると、想像以上に未完成で若く、思いつきみたいな髪の色と、ドクッとする程濃厚な紅い唇をした女の子が、ぐしゃぐしゃと御構い無しに泣いていた。
別に
ほっておけばよかった。
でも
それがなぜかできなかった。
きっとそれは、彼女のその美しさが、正直すぎる程 醜かったからかも知れなくて。
彼女に何があったのかは分からないけど、涙の理由から兎に角逃げてきたのだろう。だとしても、何があっても彼女を1人にしちゃいけなかったんじゃないかと思えてしまう。でも人の哀しみというのは、計り知れるものじゃない。それに、その涙は怒りかも知れないし、彼女からしたらあんたに何がわかるの と思っているかも知れない。結局、私は彼女に対してどうしてあげるべきかわからぬまま 、その視力が低く色素の薄い儚げな瞳から流れる涙をただすくいたくて、リュックからハンドタオルを取り出し、大丈夫?と静かに声を掛けながら彼女の側にそっとソレを置いた。たまたま1番気に入っているハンドタオルを鞄に入れていた今日。彼女の口紅の色にとても良く似合っていて、こういう女性が持つべきものなんだと痛感せざるを得なくて、自分の所有権を簡単に捨てた。
そしてずぶずぶの彼女は、一瞬だけ躊躇ってペコッと小さく頭だけ下げて、下手くそな笑顔を少しみせると、関節の一部みたいな凝った指輪をゴロゴロとはめた左手でソレを受け取ってくれた。
それに対して私は少しほっとして、彼女をちろっと見た時、耳が赤くなっているのが 可愛くて、私は隣の隣の隣の席から彼女の横の椅子に腰をかけ、ただ赤の他人として座っていた。でも側から見たら、私が泣かした事になっても構わなかったし、そもそも、私の事も 彼女の事も 2人の事情も、本当の事なんて誰も気にしていないし、世の中で真実を見つける方が難しいのなら
今日だけ。今だけ。何もかも嘘でよかった
そう考えながら、ぬるいカフェオレでカラカラの喉を誤魔化しつつ、横にポテッと座っていると、想像以上に早く彼女が口を開いた。
「ありがとうございます。ちょっと落ちついたかな…… さっき大喧嘩したんです まぁ…私からしたら好きな人となんだけど…」
たったそれだけの彼女の些細な情報だけで、私は頭をいっぱいにして、まじまじと見つめた彼女は やはり美しい人で、私が男だったならば、何かと意識してしまうだろうし、もれなく気になってしまうタイプだと、変な確信をしていた。
男でも女でもそうだけれど、相手の心に触れるのは怖い。だからって、上っ面だけの乾いた弄り合いを続けていたら、ヒリヒリするだけなのかも知れなくて。彼女と彼がどこまで分かり合えた仲なのかは2人にしかわからないけれど、関係よりも違う何かが壊れた事で、彼女は隠しておくべきだった弱さを曝け出してしまいたくなったのだろうか。けれど、真相は私が知る必要がない事は百も承知で、私は何も咎める理由を持たぬまま、今出会ったばかりの彼女の背中をそっとさすって席を立った。
その瞬間、彼女が悲しみではなく失望で泣き腫らした目で私を見つめ、今一度会釈をしてくれた。
涙というのは、女にとってもっと計算高く感情を証明してくれる武器だと思っていたのに。
彼女の涙は
私が見てきた涙の中で、1番正直で 美しく ちゃんと醜かった。
あなたを置いてきぼりになんかしない。
大丈夫。
いつかまた東京のどこかで
あなたに会えるような気がするから
ハンドタオルはあげます。