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土土土・時時時

当番ノート

町というのは、大体は陸の上にある。

もしかしたら今後、科学技術が発達したら、空に住んだり海の中に住んだりが主流になるかもしれないが、今のところは大体の町が陸、つまり土の上に存在している。

土地には物語が存在しており、だから土地こそが物語なのだという意見を前回の記事で述べたつもりなので、今週はその土地の上を撫ぜて過ぎる【時の物語性】についての感想を述べたいと思う。

近頃私は就職活動に力を入れている。

インターンシップに参加する中で、他大学の就活生と話す機会が増えたところ、

「時間だけが唯一すべての人に平等な存在なのだ」

という話をよく聞くようになった。

時間は本当にすごい。すごいなー時間ってすごいなーと言うしかないくらいすごい。時間が経てば何もかもの取り返しがつかなくなる、というのが特にすごいと思う。

どんな些細な出来事でも、時間が経つと“その出来事が起こった”という事実はもう二度と消すことができない。

もしかしたら今後、科学技術が発達したら、ぴょいっとタイムスリップしてカジュアルに過去改変ができるようになるのかもしれないが、今のところは時間というものは取り返しがつかない平等に過ぎる存在だ。

私はそんな時間のことを、歴史と呼べるようにすることが好き。

物語は出来事の流れを説明する役割を持っていて、出来事が進行するときは時間が経つ。その取り返しのつかない時間の経過によって、作中の主体が選択した行動の結果を、受け手に届けるもの……

“物語”という言葉のこの一面は、歴史という概念とすごくよく似ている。

つまり物語を書くということは、歴史を書くということなのだ。

時とは物語なのだ!

前回「町とは物語である」と言った舌の根の乾かぬ内にこんなことを言ってしまっては支離滅裂だろうか。

だけど時は本当にドラマティックなんだ。

例えば私の住む岐阜には本当に大きな、戦争の為に使われていた飛行場があって、だからその土地周辺にはその流れをくんで集まった飛行機関連の職が多く存在し……戦争が終わっても仕事場は、町の大事な産業のひとつとして残った。

時が過ぎて土の上から戦いの為の飛行機が消えても、そこで戦いの為の飛行機が作られていたという事実は消える事はなく、人々の暮らしの中に、しずかに歴史として溶け込んでいく。

すばらしい! ビバ歴史! ビバ物語!過去に起こった出来事が伏線として回収されて今の私の生きている環境に繋がってくるなんて! やっぱ現実ってロジカルでさいこう! あなたもそう思いませんか!?

「でもべつにそういうのって興味ない人は一生知らないでも平気で生きていけるし聞かされても面白くないでしょ」

と、

(以前こんな感じの話をしたときに)言われたことがある。

私はとてもショックだったが、そう言った相手との、“この感覚の違い”を作り出した原因も、きっと自身の経験・歴史の中にあるのだと同時に思った。

そうして過去から掘り出した私の“この感覚”の要因はおそらく、

思春期を過ぎたあたりから【人が生きる為には絶対に誰かが時を物語として残さなければいけない】

と、ずっと感じているということだ。

これは私が物語を書きたいと願いだした理由の一つにもなるだろう。

小さいころから妄想癖があって、でも絶対それだけが理由じゃないのだけれど、何だか私はずっとふわふわと周囲から浮いている感覚を消さないで生きてきて、

そういう無責任なところも、彼らの癪にさわっていたのかもしれない。

中学生から高校の始めくらいのころまで、その妄想癖が生活に支障をきたすくらいに酷くなった。

靴に画鋲を入れられるとか、学校で作った作品をこわされるとか、細々としたいやがらせをされ出したり、持って生まれた容姿にケチをつけられ出して、自身の人生を生きるのが嫌になったのだ。

自身の物語を生きる元気がないせいで、他者の物語に逃避してしまう。自分の明日しなければいけない事よりも、明日発表される架空の、自身の生活に一切関係の無い存在たちの物語の方が大切で、だから現実の生活へ充てる時間配分がめちゃくちゃになって、“ちゃんと生きる”を放棄している。

あの頃の自分のことを思い返すと本当に不健全な毎日を送っていたと思う。とにかく自身の魂の入れ物が一般的に見て『状態:悪い』なんだ~と気づいたのがとてもショックで耐えられなかったのだ。

そんな時期、とある知り合いと駅前で偶然再会した日があった。

私の靴に画鋲を入れやがる人達と顔を合わせなければいけない習い事が週に一度あって、それに行く日は必ず顔を合わせていた人だったのだが、その習い事を辞めて四年ほど経ったときのことだったから、顔を合わせるのもこの日実に四年ぶりだった。

それまでは毎回お喋りする仲だったのに、習い事を辞めると決めた最後の方の時期は、自身の顔や体を見られたくなくて、その人のいる場所を通り過ぎる時はうつむいて、電話をしているふりをしながら走り抜けていた。

だから、はじめ向こうが私に気づいて声をかけてきた時、私は顔を覚えられていたことに少し不安な気持ちになった。「急に愛想悪くなりやがってこのガキが……」とか、思われているんじゃないかと心配だったのだ。(優しい老婦人だから絶対そんな語彙使わないはずなのに……)だけど話していると普通に私の成長や進学を喜んでくれて嬉しかった。

私は、だんだんちゃんとその人と話せる気分になってきて、

その人はいつも、私が会う日は二人組でいたから、「もう片方の方は今何をしていらっしゃるんですか?」と聞いた。

そしたら、「2年前に亡くなりました」と言われた。

その人は、駅前のコロッケ屋さんを夫婦でやっていたので、お店のシャッターが降りっぱなしになった時期からなんとなく「今何されているんだろうな」と考えたときもあって、「もしかしたら、もう体がお元気じゃないのかも」というのも想像したことはあった。でも私はその時とっさに出た「ご愁傷さまです」の使い方があっていたかのかがどんどん不安になって、そういう気持ちもうまく話せなかった。

そうしてテンパっていた私にその人が、

その亡くなった旦那さんが私の事を「かわいくて真面目でいい子だ」といつも言っていたよ、と聞かせてくれたので、私はとても驚いた。

中学の、習い事をちょうどやめる前くらいの時期……一番周囲から嫌われていた頃の、不快な見た目に違いなかった私を、かわいいと言う人がいるなんて思いもしなかった。

今でもやっぱり信じられなくて、この記事を書いている間に当時の写真を確認してきたが、やっぱりかわいくはない。

いや、分からない、子供だからちょっとまだかわいげはあるかもしれない、

でもその瞬間の私は本当に、あのコロッケ屋のおじさんが私のことを可愛い真面目な子だと思っていたことが、

というかあの、顔を合わせたくなくておじさん達から逃げはじめた後も、ずっと好ましく思われていたことが信じられなくて、「わぁ~」とかいう意味不明な返事をした気がする。

全然真面目じゃないのに。現実逃避してばっかでダサい嫌われてる中学生だったのに。

その後、その人と別れて一人で駅のホームに行った時、私はとても後悔した。

今までの、自分の生き方について。

その時期私は「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画にとても傾倒していた。

作中、主人公の少年は母親を救うために敵にわざわざエジプトまで会いに行くのだが……私はそんな漫画を好きだったくせに、自分がまた会いたいなとふんわり思っていた相手には、もう二度と会えなくなってしまったのである。

自分を信じて行動する勇気の大切さまで読み取れていれば、もっと良い生き方ができていたかもしれないのに。その世界に逃げ込むばかりで、作品の良い部分までもが視えなくなってしまっていたのだ。

もっと、自分の人生を一生懸命生きておけば良かった。自分の周りの人にちゃんと向き合っていれば、そのおじさんが亡くなる前に、「いつも優しくしてくれて本当に嬉しかった」とお礼を言えたかもしれない。

習い事や学校で周囲に「お前は不快だ」と言われ始めた時期に、今まで優しかった人にどんどん切られるのが怖くて、おじさん達に対しても話せなくなってしまったよ、と。気持ち悪いはずの私をかわいいと言ってくれてありがとう、と。

この時の出来事を、私は今もとても大切に覚えている。

物語に出てくるような、救われるような出来事が、自分の人生にも起こり得るのだということに初めて気づいた日のことだからだ。

人間は生きるしかないから、物語を読んで、自分の人生の時間に納得していかなければいけない。

人生からの逃避を引き止めるものが、きっと、過去の誰かがのこした、物語という時であるはずなのだ。それが、物語の存在意義に違いないと私は信じているし、だから物語を書きたい。

今回の記事は長くなってしまったので、もうここで終わりにしたいと思う。

また来週も物語について考えます。興味を持った方はぜひジョジョを読んでみてください。それでは。

荒々 ツゲル

荒々 ツゲル

物語をつくりながら、物語について学んでいる者です。
現在は芸術大学に在学しながら、
演劇・テレビドラマやラジオなどの放送関連の脚本・ゲームシナリオ等の執筆をしています。
海に憧れる岐阜県出身です。

Reviewed by
木澤 洋一

今回は時間という概念をもとに、物語というものを、筆者自身の物語も交えて語っていて、読み応えがあった。最後に語られる物語の存在意義、おお〜!!と唸りました。

自分なんかは、タイムスリップとか時間系の映画を見るともれなく泣くし(ドラえもん以外)、直接タイムスリップでなくても作品の中で時間の流れを見せられると、もれなく泣く。時間は物語、なるほど〜。

自分が食っちゃ寝、一服、また食っちゃ寝るばかりしてるのは最近物語を見たり聞いたり、読んだりしていないからかも。何年も、ほぼ全ての事をパス、パス、パスしてばっかりだ。自分自身の、出来れば最高な物語を作らなければ...!と思いつつ、昨日もただじっとしてその場に留まるという、ロクでもない事しかしなかった。
とにかく次回はまたどんな方向から物語への思いを語ってくれるんだろうと楽しみです。

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