踊り疲れて眠ってしまう。踊りきったね.という自分への労いなどする暇もなく、ただ気がつけば。
曲は一時停止。別の世界線に放り込まれる。
寝たくて寝たくて仕方がないというわけではなくて、気づけば寝入っていた。窓から燦々と日が差している。まだカーテンのない我が家、家の奥のほうに入ると暗くなっているスペースが現れる。そこに布団を移動させる。その日は、アパートから歩いて5秒の所にあるパン屋さんでパンを買って、食べた。そのあとガス会社に電話をかけ、新しく届いたレンジを箱から出した。それだけのことに費やした1時間半を除いて、ずーっと布団の中にいた。
よくわからなくなってしまう。目を閉じる前と開いた数時間後は、それぞれであって、地続きとは思えないんだ。エンドロールを流すことができずに終わった映画か、手を振り会えずに、当たり前に次も会えると思っていた友人みたい。地続きであることが信じ難く、ただそうやって紡がれていくものの数と量だけひとつぶが存在する。
起きるとき。ごくごく当たり前のように呼び出される。また出番だよと言われているかのように。遠くの世界へ連れてこられたような気がする。
この感覚を昔から知っている。子供の頃、朝起きて、眼に映る天井を朦朧とした脳みそで眺めたとき、「ここはどこかな」「誰なんだろう、私」と不思議に、ただ強く、頻繁に思う記憶。エゴ、アイデンティティーとかいう「我の基盤」のようなものがやわやわである幼少期には、より自分の連続性が曖昧だったのだろう。
今日は「なんで」と朝起きた時に言った。原稿を書かずに寝てしまったから。煌々と明かりがついた部屋の電気。アルコールの残った身体。
いつも「いつのまにか寝てしまった」の中には多かれ少なかれ悔いが残る。寝入ってしまった時とはまた違う「目覚めてしまった」ということへのそれには、僅かな絶望とも呼べるような感情が湧く。時間が過ぎていくこと、それが有限であることを想った時に胸が少し痛くなる。もったいないおばけ参上。
よくわからなくなってしまう。毎瞬毎瞬。確かに身体は連続しているんだけれども、この身体という器じゃない「何か」(精神?)が、さっきと今とで本当に同じなのか。中身がごっそりと入れ替わっていたとしても不思議じゃない、意識は一度飛んでいってしまっているのだから。会いたい人に自由に会うことができていた時代と、一人で過ごすことしかできない今は、本当に1本線で続いている?
それが地続きであることを証明してくれるのが記録。写真であり、動画であり、日々の日記、twitterのログであったりする。
身体に刻まれる記録もある。傷やあざ、幼い頃に大泣きするくらい派手に転んで作った傷は今でも膝にあって(普段は見ることはないけれども)確実に「在ったこと」を教えてくれる。
「寝る前と寝た後の自分が同一であるかどうか」といった問いに真剣に向き合い取り組むことができた大学時代は過ぎ去り、気がつけば社会人3年目となった。そんな疑問を挟む余地もないようなせわしない生活を送ることは、パリッとしているけれども少しさみしい。
ただお休みの日に夕方寝入った時間だけは、いつもより柔らかくてほんの僅かな絶望と悔いを含んだ大きな豊かさを、思い出させてくれる。