暮らしている中で、言えなくてもどかしい、が何度もある。今日は演劇のことから話しはじめてみようと思う。
あれは演劇をはじめて最初の年のこと。3年前、人生ではじめて台本というものを手にした。縦に書かれたセリフとト書きの数々に当時の私は、非常に感銘を受けた。
「言う」と「読む」の違い。私は、台本の中に書かれたセリフを「言う」ことの意味が、長らくわからなかった。もちろん、識字力と発音する能力がある限り、読める。だけれどもそれは、並べられた文字を音に変換しただけの行為であり、「言う」のとは天と地くらい違う。らしい。
はて?である。
今のいままで忘れていた。ついさきほど台本を引っくり返し漁ったとき、当時の記憶が蘇った、きれいに。あのとき、舞台の上にあがる3分の時間で与えられているセリフを稽古場で、ひとつも「言う」ことができずに困ったんだった。
『奥さん!奥さん。これこれ、忘れてたよ。』というセリフに代表される八百屋のおばちゃんの言葉たち。
稽古場をとにかく走り回らされた記憶だけが鮮明にある。
「ここを”奥さん!”と言いながら走って」と命じられ、力の限り走った。ゼェハァと息が上がったその瞬間に「今、言って!」と言われ、吐いたセリフが「言葉を言う」だった。
「言えた」と思った。
あのときの感覚はなんだったんだろう。その言葉を真実味をもって言うことができたというか。言葉がすとんと腑に落ちてきたという感じである。自然と、気づけば。
あのとき私に走る、が必要だったのは、私がその言葉に真実味をもつためだった。吐く言葉が自然と出てくる。そこにいること、それ自体がすべて自然であって、当然だと思えること。(これはたぶん役者だけではなくて、働くときもきっとそうで。ひとりのスタッフとして、役を与えられてるのはおんなじかもしれません)
外部から「与えられている」言葉や事象をどれだけ信じて、真実だと思えるかは役者にとって、ひとつの技量。肚に落ちる、納得するという言葉で表せるかと思いますが、これは身体で分かっていくこと。
どれだけたくさん肚落ちできるか、その積み重ねのなかに、役者人生のおもしろさが詰まっているのかも。まだまだ演劇を始めて日が浅い私には難解なことだけれど、自分の吐いた言葉に納得できて、そして相手にパコンッと伝わった瞬間は気持ちいいもの。
「言えないな」の根っこを探ってみるといろんなものが見えてくる。人に見られているという羞恥心に代表される自意識、感情を表に出すことへの強い抑圧。これはけっこう根深くて、一朝一夕ではどうにかすることはできないので、丁寧にゆっくりとほぐしていくといいです。舞台の上では、出しちゃいけない感情はない、私は私じゃなくて「役」である、ということを少しずつ少しずつ、身体に染み込ませていく。
語れる言葉、できる表現がそう多くないこの身体は、生きやすいとは言えないのだけれども、今日も少しづつ言うことができる言葉を地道に紡いでいければと思います。
ただ、真実味のありすぎる想いだって逆に言えないのよね。どうしてかというと、零れ落ちちゃうものが多すぎるんだもの。アァ、言えなくってもどかしいな。胸の内側にはこんなにあったかいものがあるのに、心臓を切り開いて見せたら赤い血が流れるでしょう。