名付けについて考える。
かつていくつかの名前を持っていた。
名前は、コートネームと言って、部活のコミュニティ内だけで通用するものだった。部活が始まった初期の頃からのもので、代々引き継がれてもう何十年と続いている制度らしい。2つ上の先輩が名付け親になる。
名前をもらい、帰宅後「〇〇という名前になったよ」と家族に報告する時は変な心地だった。
体育館の舞台上に新入生が30人集まって、名前の候補のレジュメを持った先輩方が額を突き合わせて、喧々諤々の話し合いをしている傍、中学1年生の私は、その光景を見ながら、ただ呆然とするしかなかった。
通学のためにはじめて一人で乗る電車、はじめて着るセーラー服、履く革靴、まだ入部したてホヤホヤの私は部活仕様のTシャツもズボンもなく、大きく名前の印刷された布のつく体操服で床に三角座りをしている。すべてが初めての体験を、小さな頭と体でどうにか受けいれようと、それなりに必死だったのだろう。
話し合いの結果、先輩から「ねえ、アズでどう?」と声をかけられる。はい、と答える以外に他に選択肢を持たないため「あ、はい」と、後ろからトン…と見えない力で押されたかのように言った記憶がある。そこから6年間「アズ」と呼び続けられることになる。
名前というのは不思議なもので、最初は自分がその名であることはよっぽど意識しないとできない。呼ばれても数秒たってから「…自分だった」と気づくため、返事までの時間にタイムラグが発生する。
呼び続けられていくものだから、いつのまにかアイデンティティのひとつとして身に宿っていく。意識しなくても、呼名に瞬時に応答することができる。
名付けをしたこともあるけれども、どうせなくなってしまう物を買う時とは違って、相手が持ち続けるものだから、愛と願いを込めた。いまでも、当時の部活の同期からはコートネームで呼ばれ続けていて、ずっと大切に持っている。