誰もいないよりは誰かがいたときのほうがおもしろい、たまにでいいけど。
適度に安らげる孤独のほうがあったほうがいい。適度にね。
そういえば最近とてもいい演劇を見た。つめたい人、あたたかい虫の話。演劇が善いと思うのは「弱い」とされることも、肯定されるからだ。胸が苦しくなるくらい、愛おしい、弱さ。そのあとが破滅だったとしても、一瞬にとんでもないエネルギーを注ぐっていうのが、演劇。暴力も、狂気もある。
結局メッセージはなんだったんだろう。それはわからないけれども、エネルギーに感情が引きずり出されてくる。演劇は筋が見えないことが多い、印象的なシーンと言葉に抉られる。意味とかまとまりとか、あってもなくてもどっちでもいい。回収されなくても放りっぱなしでもいいんだ。
爬虫類を飼うことへの憧れがある。バクちゃんと名付けたい。私が想像するのは、名付けをして、餌を食べてくれるかなとそわそわしながら水槽の前で、正座をして、たまに写真をとってTwitterで自慢をする。SNSで和らげることのできるくらいの孤独。人も、ペットも、仕事も、入れ替え不可能ではだめなのだ。替わりがきかないと、だめなんですよ、生き永らえるためには。
最近の生活全般について書こうか。
ベランダでは洗濯物が揺れている。揺れる布を見るのは好きだ。カーテンを昨日ニトリで新しく買ったんだ。レースカーテン、家に帰って設置してみたら10cmくらい丈が足りなくてすこしがっかりした。思慮の浅さに。窓枠の丈が100cmだからって同じ長さのカーテンでは設置したときに短くなってしまうことにどうして気が付かなかったのだろうか。検索すると、裾の部分をほどくとよいよいういのでやってみた。ほどいた糸くずが畳の上に無数に落ちた。
クイーンサイズのマットレスを買った。その上にシングルの敷布団を2枚敷いている。誰かのために空けたスペースに1人でゴロリと寝そべるのはややさみしい。早く人を家に呼んでボソボソっと暗い天井を眺めながら秘められていたものを聞く、そんな時間を味わいたいのだよ、そのためのクイーンサイズのマットレスなのだよ。
如才なくて何にも困っていない男の子。私の欲望の構造を暴くことが好きである彼の欲望の構造を暴くことができない。何言ってんだ。
今日はあの人が来る日ではない。連絡したくてたまらなくても、メッセージを打つには至らない。なんだって、我慢しておくことが美徳だから、誰からも教わっていないのに待つ。そのあと”なんでもなかったよ”というように返事をするという筋まで決まっている、決められた枠をなぞるのが善いことだと信じていた。お決まりの筋をなぞっていく。つまんないけれどもしょうがない、どうしようもない。
休日には2度3度昼寝をする、暇にかこつけて。本当は「会いたいんだけど!」と怒り出すこともできるけれども、それをできない。
あの人と私は、ひとまわりほど年の差がある。したいようにふるまい、いらぬ気遣いをしない。(ただ古い英国映画に出てきそうなテンプレートな気遣いはする)自由であることを美徳とするあの人は、縛られるのをよしとしない。そして自分の感情に蓋をしない。こないだは、仕事で悔しいことがあった、上司に嫌なことをされた、といって非常にがっかりして、怒っていた。
そういう人を強い人だと思う。感情を爆発させるのは、子どもみたいだ。強いと思うのは、感情を発露させてぶつける自分を自分で許しているから。だから、私が「こうじゃないといけない」に縛られている時に本当に不思議そうにする。本当によくわからなさそうな顔をする。
あの人にはあの人の道理があり、その道理と私のそれがそぐわないこともある。私は、譲ることのできないほどだいじなものなんんて、ほんの少ししかないことにしているから、言語能力の高いあの人に主張に巻き込まれて、まあそんなもんなか、と思い直す。
SNSで和らげてもらえるぐらいの孤独を癒そうとして、爬虫類を飼おうと思った。って話をしたら、「やめたほうがいい。君は寂しさにもうちょっと向き合ったほうがいい。今までやってこなかったことのツケを払いなさい」と言われた。なんだよそれ。半分わかるから、逆に腹がたつわ。