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2F/当番ノート

美への投資と「健康で文化的な最低限度の生活」

当番ノート 第55期

コスメ収納的なスペース。ほとんどが家出する時に持ってきたもの。スキンケア用品は最近新しく揃えた。

センシュアルという言葉の意味を知ったのは美容ライターをしていた時だった。私が公私共に美容で多忙を極めていたのは数年前なので、今のファッション誌にこの形容詞が登場するのかはわからない。官能的かつ知的で大人っぽい、みたいなニュアンスのあるこの言葉はコスメを紹介する身としては結構便利で、「センシュアルな透け感まぶたを演出するこちらのアイシャドウは〜」などと、おしゃれ用語を多用する文章を書いていた。

一方今の私と来たら、センシュアルなアイシャドウもじゅわっと内側から血色感がにじむようなチークも、カバー力の高い濡れツヤファンデさえも使わず、ほぼすっぴんで生活している。これは、コロナ禍でマスク生活になり、外に出る機会が極限まで減ったことにも由来するが、それだけではない。コンビニにまでどこぞのデートかパーティーか、という勢いでワンピースを着込んでいていた過去の私からしたら、毛玉の浮いたセーターにジーンズとスニーカー、そしてすっぴんマスクという格好は、美しくなろうとする努力の放棄、つまり怠慢に他ならないだろう。

このように、美意識の低下が甚だしい昨今の私は、「健康で文化的な最低限度の生活」の範疇から超えたいわゆる美や装いというものについて考えている。いや、ここでは「範疇から超えた」としたが、美が文化的なものであり、女性にとっては美しくなることが社会的な強制に近いものという指摘だってあるだろう。ここではその問いについては触れない。しかし、なぜ私の美意識は文字通り「最低限」まで低下したのだろうか。

食と住については、知恵と工夫と現状を受け入れる覚悟で丸ごと愛して乗り切ったし、何の不満も不自由もないのだ。衣については、ほぼGUの隅っこの格安コーナーで入手したものばかりだけど、着るものもある。しかし、衣を超えた装いである化粧とスキンケアについてはまだ正直折り合いをつけられないでいる。

例えば100円のいい春キャベツが手に入った時は嬉しいけれど、500円のプチプラコスメを買った時は別にさほど嬉しくはない。デパ地下のお野菜やお肉が欲しい!と地団駄を踏む思いはしたことがなく、この安い食材たちでどんなおいしい思いをしてやろうか、とむしろ奮い立つのに、このプチプラコスメ(プチプライスの略)たちでどんなに美しくなってやろうかしら、とは思えない。どんなにセザンヌ(プチプラ)のアイシャドウの質が良くなったって、スック(デパートコスメ)の8000円するパレットのしっとりながらぴたっともちがいい、柔らかな粉と発色には敵わないのを知っているからだ。

美容にはお金がかかる。そしてお金を持っている人ほど、綺麗になれる。美容施術をも考慮すると、経済的なゆとりが「美」に直結するのはある程度真理だろう。それが顕著に出るのはポイントメイクよりもスキンケアで、大容量のハトムギ化粧水(安い化粧水の代名詞的存在)をどんなに吹っかけたところで今年26歳のゆらぎ肌には足りねえよSKIIを塗布させてくれ、と悪態をつくしかない。このガラスの天井を突き破ろうと工夫する意志は私にはない。

おそらく、私の美意識の低下は、諦めに近いのだ。どうせお金ないから綺麗になんてなれないし目の下にできたシミも消せないし、というちょっと拗ねたような気持ち。これに気づいた時、たいそうまずいぞ、と焦った。このまま諦めて、モチベーションの低下に任せて高いものが買えないと悪態をつき続けて何もしなかったら、10年20年経ったらどうなっちゃうんだろう。

そう思った時、生活保護になってからあえて手を出さなかった、コスメとスキンケア用品を勢いよく買ってみた。計1万円分お買い上げして、ものすごくすっきりし、拗ねた気持ちは我慢からきていたんだなと思った。それでもやっぱり、お金がないけど工夫して綺麗になろう!とまでは吹っ切れないし、その境地に行きたいとも思わない。虎視淡々と、スキンケアのレベル上げを狙いながら、美容ってなんでこんなにお金かかるんだと吠えていく所存である。

滝薫

滝薫

ライター兼福祉の仕事がしたい人。アロマと料理と編み物が趣味というナチュラル丁寧加減ですが、本人は結構辛口です。

Reviewed by
高松 直人

衣食住それらがあればたしかに最低限生きていけるのだけれど。でもそれは身体を維持するためのもの。心を保つには衣食住の他に「必要最低限の無駄」が必要なのかもしれない。

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