“さっき”が消える。
認知症のおばあちゃんと対面した時、私がこれまで抱えてきた人間関係の悩みや努力は、”さっき”があるから存在してるだけで、脳が”さっき”を消してしまえば、努力も執着も簡単にへしゃげてしまう世界なのだと気がついた。
『なんも食べさしてもろてない!』(さっき、要らないって…)
『いりません』(さっき、欲しいって…)
『△○□』(さっきから同じことを何度も….)
『□△○』(さっき説明したのに!)
あーーーー腹たつ!て思うのは、私がさっきを覚えてるからだ。覚えてなければ、怒る理由がない。相手は悪気なく覚えてない。純粋なリアクションをしているだけなのだ。
私には、小さい頃から「あの人のさっきの言葉、あれはどういう意図で…」などとしつこくさっきのことについて考え尽くす癖があった。私が悪いのか、相手に同じことを言わせない為には次からどうしたらいいのか、相手に間違いはないのか、結局私が間違っているのか…などと延々と考えるので、一人になると、根暗ジメジメ人だ。
最近やっと、正論を探してすがることに意味がないと気づき出した。打ち負かすとか、いかに不条理かをあかすとか、とても不要なエネルギーなのね。
ちょっと脳味噌不具合でたら、それまで豪語していた正論を、自ら壊して突き進む。認知症になったおばあちゃんは、家族に白ペンキを頭からぶっかけるみたいに、容赦無く、今だけを生きてる。
だからこっちも、今、おばあちゃんが幸せか、今、おばあちゃんが心地よいか、それに合わせて、言葉を変えていく。
「….了解!」「そうなんだね」「うん、そうしなよ」「そぉ?」「好きにするがいいよ」「そう思ったんだね」「そうしたいのね」「そうだね」「はーい」
気持ちの良い交流ができないことだっていっぱいあるし、虚しくなったり、両親の心遣いを踏んづけて見えるときは、自分のことよりよっっぽど腹立ったりする。余震を起こす震源みたいな存在だが、老いの大教材であり、私を今地球に存在させてくれてる、物凄い大きな命だ。
おばあちゃんとお風呂に入り、髪と体を洗う。「あ〜ごくらく、極楽〜」と言ってくれることがある。孫として、一番嬉しくて、ホッとする言葉。