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2F/当番ノート

08 私の故郷

当番ノート 第55期

わたしたちは故郷を離れると、一体自分がどんな人間だったか、何が好きで何が楽しくて生きてたのか、もうすっかり忘れてしまう。新しく出会った大人を片っ端からつまらなく思ったり、そう思ってしまうわたしのほうがつまらないんじゃないかと責めたりして。だけどそんなことないと言い切れるのはまた帰りたいと思えるあの時間があったから。あの時の私が大好きだと心から言うことができるから。大丈夫。あそこが私の故郷で、あの日々を思い出すたび、私は私を保つことができる。

 

 

3月25日0:30頃。電話がかかってきて「あのさ、今日、びっくりな事に気づいちゃったんだけどさ、今年の冬、外でて息をはーっと吐いた時、 『息しろーい!』ってなるの、やってなくない?!」と言われてはっとした。確かにそうだ。朝家を出た時や、会話のちょっとした隙間に、また一人の帰り道の闇夜に、恐竜はこんな感じで火を噴くんかなって思いながら白い息を吐き出すのは冬のちょっとした楽しみだった。でもマスク必須の生活になってからそのこと自体をすっかりと忘れていた。

それでふと気づいたのだ。好きと言う気持ち、日常のちょっとしたときめきを、この一年でたくさん失ってしまっている。あんなに大事にしていた言葉達も今じゃ思考よりも先にボロボロとみっともなくこぼしてしまっていることが多々ある。ぼーっとしているとたまに自分の人生がどこか他人事に感じる時がある。まずい。私は何をしているのだ。しゃんとしなきゃ。心が震える瞬間やときめきこそが、私を生きた心地にさせるものだったのに、すっかりとなにも感じない日々に慣れてきてしまっているじゃないか。

春の浮かれた空気、夏の指先のネイル、秋の夜のお散歩、冬の顔に張り付く冷たい空気、夜に窓を開けて冷たい空気を部屋に取り入れ布団の暖かさを感じること、クリスマスの煌き、フードの下に手を入れた時のぬくもり、夕方の薄ピンクの空、瞬く星の光、ドライアイスの煙、不意の猫、芝生、裸足、シャンプーの匂い、ろうそくの揺らぐ火、髪を巻いてる時間、歯磨きをした後の開放感、電車の中で眠ること、友達の部屋、ら行の口触り、ハグ、ほろ酔いの気分、38度くらいのぬるま湯、日曜日の朝の雨、ダボダボな服、ヒールを履いた女の子の足、グロスを塗ったつやつやの唇、癖っ毛の前髪、ポニーテール、博多弁、小さい子がよく履いてる音のなる靴の音、絵の具、いい作品を見た後の余韻、演劇をみること、演劇をつくること。

好きと思った瞬間を宝箱にしまうようにメモに書いて保存していたのに、最近はすっかり更新されなくなっていた。大人になると新しい体験が減って刺激がなくなることにより時の流れを早く感じるというけど、こういったときめきにもやっぱり慣れていってしまうのだろうか。そうではなく自粛生活によって荒んでしまったのだろうか。

緑道の桜の木の下で、しっかりシートひいて、ランプ設置して、折りたたみ式のテーブルにご飯広げてご飯食べてるおじさん。

コインランドリーのあたたかな匂い。

花束を買うか迷う気持ち。

朝の電車の中で心理学の本を読むお姉さんの、つり革につかまる手の親指が、人差し指を擦って、擦って、擦って、曲げる。擦って、擦って、擦って、曲げる、をくり返す様子。

4年働いていた先輩が辞めてしまう日、たくさんの常連さんがこぞってやってきて餞別といってプレゼントを渡し、また会おうとハグして帰って行く姿。

暗闇の中の電子レンジのオレンジ。2つのスープで迷った時、その迷っている片方を頼んでくれる優しさ。朝寝坊したお昼過ぎ、台所から聞こえる卵を解く音。カーテンから漏れる光。水面の揺れる光。グラスが通した光。

大丈夫。まだまだ心は揺れている。この綺麗なものを綺麗と、心から感じ取れる私が好きだよ。どうかそのままで、そのままでいれるように、私のことを保ち続けて欲しい。

 

 

この一年、お金は大事だけど、欲しいと思ったものをお金で買って手に入れても大した感情は得られないとわかった。あと、相手がどんな風に思うかを考えずに投げつけられた言葉にばかりに傷ついた。どうしてそんな言葉を口に出せるのかがわからなかった。でも友人はそんな人達に対して怒り、カバンをぶん投げたらしい。そんな友人を誇らしく思った。「すばらしき世界」という映画で生きていくために怒ることを堪える姿が描かれていたが、そうすることがこの世でうまく生きていくための手段だという事実に悔しくなった。自分を傷つけられたら怒るべきだ。怒れる人でありたい。うまく生きるってなんだ。「うまく生きていく」ために捨てたものこそが本当に人間として生きてくために必要なものだったんじゃないのか。でもどうしてそうすることができないのだろう。どうして私たちはいつだって弱者みたいになってしまうのだろう。私から見たら、彼女達は誰よりも美しくて賢くて強いのに。

 

 

アパートメントに滞在して、あっという間に2ヶ月がたった。大して何にもなかった気がするけれど、しっかりと部屋は物で散らかっていて、覚えていたいと思った景色は壁一面にぎっしりと貼られていて、カセットテープには愛おしい時間達がたくさん刻まれていた。

部屋を眺めていると大丈夫、微々たるものだけど変わっている、積み上がっている、と思えた。2ヶ月まえの空っぽだった部屋が、しっかりとわたしの部屋に生まれ変わっている。やっと愛着が湧いてきた頃に離れてしまうのは寂しいけれど、まだまだここを出て書かなければならないことがたくさんある。

この先あと何度人に期待し、絶望するんだろう。わからないけれど、そのたびに私はここに戻ってきたい。こんなに好きな瞬間があって、好きな人たちがいて、好きな場所があること。美しいものを美しいと思い、好きな人を好きだと思えること、傷ついたら怒り、言葉を自分のものとして喋ること。ずいぶん昔に当たり前にできていたことが、どうやら徐々に難しくなっていくみたいだから何度だって立ち戻り思い出し歩む。

ここが故郷だと、思える場所があって本当に良かった。私はこれからもこうやって生きていく。それを忘れないように、残し続ける。

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