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2F/当番ノート

01 実家の冷蔵庫

当番ノート 第55期

実家の冷蔵庫は、いつだって食べ物でいっぱいだった。

朝の納豆、卵、牛乳と豆乳、ソーセージとベーコン、バターにヨーグルト、お味噌、梅干し、キムチと豆腐と夕食後に食べる果物、加えて夜のお酒のお供ようにチーズが数種類、ドレッシングと焼肉のタレも数種類、あとは昨日の夕飯の残りのおかずと、いつのかわからない飲みかけのお茶や使いかけのジャム。

たくさんのものが詰め込まれた実家の冷蔵庫が整理されるのは年末くらいで、整理しても1ヶ月程経てばもう扉を閉めるのに一苦労する冷蔵庫に戻っていた。

私は今、去年の3月の大学卒業と共に実家を出てシンガーソングライターの友達と下北沢で暮らしている。

実家を出て気づいたことは、野菜は冷蔵庫に入れていてもすぐ腐ること。ナスには棘があること。味噌はなかなか期限内に使いきれないこと。牛乳は開けたまましばらく放置するとヨーグルトみたいになってしまうこと。毎晩の夕食に野菜が数種類とお肉があったことは贅沢だったということ。毎晩お湯を張って湯船に浸っていたのも贅沢だったということ。埃はすぐに溜まること。冬の朝は、部屋の中で白い息が出るほど冷えること。家に誰かがいない夜は非常に孤独になること。

そして孤独は寂しさに変わって、寂しさは痛みに変わって、痛みは夜、朝が来るまで私を眠らせてはくれないこと。

一人で生きていくのは思っていたよりも大変だということ。

就職をせず、予定していた活動が白紙になり、自主制作も手につかなくなった私は自分の輪郭をすっかり見失った。

去年の今頃に思い描いていた生活はなく、ひたすら何者でもない自分の弱さに怯え、不安と苦しみばかりを乗り越える毎日だった。

救いを求める夜。そこにいつ握ってもいい手があるってだけで安心だった。このままずっと一生孤独なのかもしれないという考えがまとわりついて離れてくれない。

本当はずっと、夜が大好きだった。光がより輝いて見えるから。

街灯はショーケースに整列する宝石のようで、それを映す水面の光は一粒一粒が自由を知ってる生き物のようにゆらゆら泳いで私の視線を釘付けにする。ビルの明かりを糸でつなげてブレスレットにし、それを身につけ月明かりの下で踊りたい。踊り疲れたら柔らかい白い砂の上で寝転び、無限に広がる星空に圧倒され身体と感覚が分離してふわふわと浮いていき、その美しさに生きていることを忘れるほど没頭したい。それから星粒を口に含んで星明かりとなった私は、暗闇に怯えるあなたの元にゆき、精一杯の光と温もりであなたを包み込み、そこから連れ出してあげたい。

そんな空想ばかりをしていた。夜の光は私の心をときめきでいっぱいにしてくれた。綺麗が不思議で仕方なかった。そんな大好きだった夜が今は私をただただ永遠に続く暗闇に引きづり込む。

夜中の3時ごろ、玄関の鍵が開く音がして、一緒に住む友達がアルバイトを終えて帰宅する。するとようやく私はベッドの上に戻ってきて眠りにつくことができた。いつ、この苦しみから本当に解放されるのだろう。そんな時はいつか訪れるのだろうか。どうかここから救い出してほしいと祈りながら。

この間久しぶりに実家に帰った時、年末でもないのに冷蔵庫は綺麗に整理整頓されていて、朝食用の納豆と牛乳と少しの調味料、私が帰って来るからと好物の梅干しと卵豆腐と豆乳は買ったばかりのものが入っている。すっかりスカスカになった冷蔵庫を見て、急にこれまで当たり前に過ごして来たあの日々はもう2度と戻らないのだと実感した。

蘇る。

大学の課題で遅く帰った時、いつもラップして置いておいてくれた夕飯。誰よりも遅く起きる私に用意されてる朝食。たまに買ってきてくれたプリン、熱が出た日のみかんゼリー。

あの光景を見ることはもう2度とないのだ。冷蔵庫に詰め込まれていたものは、愛だったということに今になって気づく。

それから母のことを想像する。

あの頃と打って変わってスカスカになった冷蔵庫をみて、母も不意に寂しく思ったりするのだろうか。思わず夕飯を作りすぎてしまったり、スーパーでプリンを手に取ってしまったり、しているのだろうか。クイズ番組を見ながらの夕食の時間や、ベランダでした焼肉、夏の川の字や、冬のリビングで日が差している部分に丸まって寝ている私の姿なんかを、思い出したりしたのだろうか。

もうこれまでも何度か経験してわかっているはずなのに、やっぱり一度離れないと気づけないことばかりで、いつだって大切だと気づいた時にはもう戻ることはできない。

だから私は「今」の話を書く。たとえその今がただただ苦しい時間だったとしても、今の私にはどうしたってこの時間の価値を本当に知ることはできないから。

今を必死に、いつかの私に向けて、いつかの誰かに向けてできるだけそのままの形で、事細かに、言葉にして残す。言葉は匂いも感情も温度も全部覚えていてくれるから。そして言葉を受け取った誰かが、またはいつかの私が、その言葉に触れた時立ち止まる。ここにいたこと、この時間があったこと、どんなに小さくたってがこの時間が今の私の全てで、笑っちゃうほど全力で生きていたこと。そしてそれらはこんなに愛おしいものだったってこと。苦しかったこと、楽しかったこと、怒ったこと、寂しかったこと、美しかったこと、こんなことを考えて、こんなことと戦っていたんだという1つ1つの積み重ねが今のあなたを作って、その時間から生まれた言葉たちがきっと誰かの救いとなる。

私はそれを信じてる。それを信じて言葉を、作品を作り続ける。

先月友人から電話があり、このアパートメントに暮らすことを誘ってくれた。友人はこのアパートメントに短期滞在していて、その友人の部屋に遊びに行ったことはあったけど、それ以外は何も知らなかったから暮らす前に一度訪れてみることにした。

アパートメントは澄んだ濃紺の夜空を背景に、一部屋一部屋の光を色とりどりに灯していた。この光1つ1つにそれぞれの生活があるのを想像すると胸が高鳴る。しばらくぼーっと眺めながらいつか見たロベールルパージュの舞台を思い出した。

今日からここに2ヶ月間滞在する。

きっと埃がすぐ溜まるだろう。紙くずやチケットの半券やお菓子の包み紙だってそこら中に散らかしてしまうかもしれない。でも全部が今私がここに生きてた軌跡なのだから、ここではそのまま残してしまおう。目にした忘れたくない景色は写真に撮って壁に貼ろう。カセットテープに愛しく思った時間を録音しよう。読んだ本は積み上げて、見た映画のお気に入りのシーンは絵に描いて残し、思いついたことはノートに書いて棚に並べていこう。

2ヶ月後この部屋はどんな姿をしているのだろう。

数年後、外から見た私の部屋は一体どんな色の光を放っているのだろう。

まずは駅前のケーキ屋さんの焼き菓子を手に持って、お隣の人に挨拶を。

「初めまして。あやねです。彩る音と書いて彩音と言います。演劇が好きで、脚本を書いて演出したり、役者として舞台に出演したりしています。2ヶ月間、短い間ですが、どうぞ宜しくお願いします。」


さかもと あやね

さかもと あやね

役者/脚本/演出
パフォーマンス団体『IE-イエ-』所属。
下北沢で歌うたいと同居中。

Reviewed by
井川 朋子

第1稿目、さかもとあやねさんの投稿です。
あなたの息遣い、誰か知らない人の家の灯り、もう消えてしまってるかもしれない遠い遠い恒星の光に私たちは生かされている事を思い出す。

生きている。

どんな時も。

冷たい美しい真っ暗な夜の空の下でそっと息をつき、白い息が帯びる温度を味わうような、あやねさんの言葉。

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